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天地金乃神

私たちは決して、自分の力だけで生きることはできません。さまざまな恩恵や働きを頂いて生かされています。

金光教では、人間をはじめ、あらゆるものを生かし育む、大いなる天地のはたらきを「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と、そしてこの天地全体を御神体として称え仰いでいます。

天地金乃神(てんちかねのかみ)は、神様と人との関係について、「人間がおかげ(神の助け、恩恵)を受けないで苦しんでいるようでは神の役目が立たない」と言われ、「人あっての神、神あっての人」と教祖・生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)に伝えられました。

この関係を「あいよかけよ」と呼んでいます。 天地金乃神(てんちかねのかみ)は私たちの親神(おやがみ)であり、子である私たち人間が神様とのつながりを持ち、人間同士互いに助け合い、幸せに生きてもらいたいと願われています。

以下では、天地金乃神(てんちかねのかみ)に関わる、教祖様の教えを抜粋して紹介します。

目次

教祖様の教えから

一生死なない父母

教祖・生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)は、神と人間との関係を実際の親子関係になぞらえて語っています。親は、子どもが言うことを聞かないからといって切り捨てることはなく、また、子どもが難儀をしていたら一日でも早い助かりを祈願します。神様のお心も、このように人間をかわいいと思う一心なのです。

  •  「金乃神(かねのかみ)様から人体を受け、御霊(みたま)を分けていただき、日々天地の調えてくださる五穀をいただいて命をつないでいる。昔から、天は父なり、地は母なりというであろう。天地金乃神(てんちかねのかみ)様は人間の親様である。此方の信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである」と教えてくださった。
  •  神様は、氏子を救い助けてやろうとこそ思うてござれ、このほかには何もないのじゃから、氏子の身の上にけっして無駄事はなされはせぬぞ。ご信心しておるがよい。みな末のおかげになるぞ。
  •  神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。
  •  広い世間には、鬼のような心を持っておる者もないとは言えぬが、しかし人間であったら、気の毒な者を見たり難儀な者の話を聞けば、かわいそうになあ、何とかしてやったらと思うものじゃ親神(おやがみ)様のお心は、このお心ぞ。かわいいのご一心ぞ。
  •  悪かったと自分に得心してお断りを申せば、神様は叱ってはくださっても、罰はお当てなさらない。
    すぐにお許しくださる。神様は、常に氏子かわいいとの思いでおられるのである。

金光教教典
 金光教本部数庁/編集・発行(昭和58年)

人間あっての神

天地金乃神(てんちかねのかみ)は、神の思いに沿わない人間を切り捨てるようなことはされません。むしろ、人間が天地の間に生かされて生きていることを忘れて、悩み苦しむ姿を憂う神様です。

  •  親は、心配さす不肖な子ほどふびんであろう。天地の神様も、神の心を知らずにいる者ほどかわいいと仰せになる。
     親の手もとへ頼って来る子には、うまい物でもやれるが、親の手もとへ来いと言っても、何かと逆らい、親を(かたき)のようにして、よそへ出てしまうと、親は、どうしているだろうかと思ってふびんになる。
     親がそうして子をかわいがるのも、天地の神様が氏子をかわいがってくださるのも、同じことである。
  •  「『氏子の信心が足らぬためにおかげをよう受けぬのを、神のおかげがないように思うておる。これが神も情のうてならぬのじゃ』と仰せがあった」とお話しなされたことがある。
     神様は、こうまで、氏子がようおかげを受けぬのを残念にお思いになっておる。もったいないことじゃないか。親の心子知らずの信心ではならぬぞ。
  •  みな、神様に捨てられた捨てられたと言いますが、神はめったに捨てはせぬ。みな、氏子から神を捨てますのじゃ。

金光教教典
 金光教本部数庁/編集・発行(昭和58年)

宗旨嫌いをしない神

金光教(こんこうきょう)では、万物の営みすべてが天地金乃神(てんちかねのかみ)のおかげ(神の助け、恩恵)の中にあると考えています。また、教祖様も、どの神様仏様でも善し悪しはなく、それぞれが大事にする神様仏様を拝み、一所懸命に願っていく「一心」が大切であると説いています。

  •  この金神は、神、仏をいとわない。神道の身の上も仏の身の上も、区別なしに守ってやる。
     神道も仏教も天地の間のものであるから、何派かに派などと、宗旨論をしたり凝り固まったりするような狭い心を持ってはいけない。心を広く持って、世界を広く考えて、手広くいかなければいけない。
  •  どの宗旨もくさすことはない。みな、天地の神様の氏子である。
     あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり左官になる子もあり、ばくちを打つ子もあり商売好きな子もあるというようなものである。
     みな宗教が分かれていると言っても、天台でも法華でも天地の神様の子で分かれているのである。
    そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだ、わしはこれが好きだと言って、みな好き好きで立っているのであるから、くさすことはない。
     世界中、天が下の者は、みな天地の神様の子である。天地の神様のおかげは世界にいっぱい満ちている。
    そのおかげがなければ空気がないのと同じで、一時も人は生きてはおられない。
  •  とかく信心は真の心で、親に孝、人に実意丁寧、家業を大切にし、神仏を粗末にしないように。たとえ薮神小神でも、災いは(もと)からということがあるから、どこの神仏も粗末にしてはならない
  •  ここへ信心せえと言うのじゃない。どこでもよい。お前方の好きな所へ信心すりゃ、それでよいのじゃ。何様ではおかげがないということはない。
     人間でも、いよいよ身も心も打ちこんで頼まれりゃ、どうでもこうでも助けてあげにゃならぬという心になって、わが力にかなわぬ時は人に頼んででも助けてあげようが。
     神も一つこと。ご自分でかなわぬ時は、神から神に頼んででも助けてくださるから、神に力がたらぬということはない。どこでもよいから一心に信心せよと言うのであるぞ。

金光教教典
 金光教本部数庁/編集・発行(昭和58年)

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