●信心ライブ
「光に向かって」
金光教放送センター
(ナレ)金光教の集会で行われた発表や講話などを録音で紹介する「信心ライブ」。
今日は、福岡県・金光教行橋教会の井手美知雄さんが、平成21年11月、金光教富山教会で話されたものをお聞き頂きます。
(音源)私は子どもが3人。一番上が30です。次が28。その下の末が長女で27歳で、なつのと申します。その子が生まれましてね、大概まあ、3、4カ月、半年も経ちますと寝返りを打ちますよ。ところが、寝返りを打たない。あまりに寝返りを打ちませんので、これはどうもおかしいということで、子ども専門の子ども病院に、1カ月ほど検査入院を致しました。
呼び出されて行きましたら、「脳波が乱れております。脳波が乱れるために2つの症状が出てまいります。1つは、体幹機能障害。もう1つは言語障害。そういう重複の障害が起きます」ということでありました。要するに、歩行困難であったり、認識する力が弱いから、言葉を覚えるというのがなかなか難しい、ということで、事実、その通りになっております。
3歳くらいの子どもになりましたら、排泄も自分で行ったり、ご飯も自分で箸を使って食べるとか、スプーン使って食べるとか、色々出来ることが広がっていくんですが、そういうことがうちの子どもにかなわないわけですね。
2歳、3歳のお子さんが当たり前に出来ていくことが、自分の子どもにかなわないということになりますと、「どうしてだろうか」という思いがたまっていきますね。そしてね、それこそ心の真ん真ん中の器に、始終つらい思いが渦巻いているような状態になっとる。
そういう時に、前の四代金光様にお届けにあがりました。
「お礼を申し上げることが先で、嘆くことは先では順序が違うんです。お互いに教祖様の信心をしておかげを受けるんです。教祖様の信心と言ったら、『信心する者は、たとえ木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ』と教えて下さった。お礼を申し上げることが先であって、嘆くことが先になるんでは、信心の順序というものが違うのではないでしょうか」。こういうお言葉を頂きました。
そうなんですね。自分はこの子を、嘆きの種、悲しみの種、つらさの種、そういうふうに見ているんだけれども、金光様の方から見れば、喜びの種、いのちを頂いている種、どうあっても、今日のお生かしを頂いていることを寿がなければならぬはずの種。そう思いまして、喜ばしいところにね、思いを、向きを変えさせて頂こうと思いました。
長女は当時、養護学校の小学部に通う年頃になっていました。ある日、2学期の成績表を頂きました。普通の小学生の通知表でしたら、「5、4、3、2、1」とか、「よくできました」「○」とかいうのですが、養護学校に行く娘が頂いてくる成績表は、「今学期は点と点を結ぶ、点結びが出来るようになりました」とか、「ハンガーに洋服を掛けることが出来るようになりました」とか、そういう出来たことを、ザアーッと書いてあるんです。
私はその成績表を初めて見るわけではないんですよ。前にも、そういう成績表を見ている。最初の1年の時の成績表も、「できました」ということが書いてあるんですよ、本当は。だけど、私がそういう目で見てない時には、出来ないことばかりに力を入れて、出来得ていることこそ、あるいは幸せをこそ探さなくてはならないのに、全く同じ目を持っておりますのに、暗いところばかりを見ているようなことでした。
心を、喜ばしい、出来得ている方に向けさせてと思うた時に初めて、その成績表の輝いている部分が目に入ってくる、ということなんです。
難儀の元を探すのではなく、おかげの元を探せ。暗闇の方に心を向けるのではなくて、光の方に向かって進みなさい。光に向かって進めば、おかげは必ずついてくる。そういう気持ちが中心に座っていくようでありたいということを思うのであります。
(ナレ)心の中心に何を据えるのか。それで、ずいぶん生き方が変わってくるんですね。ほんのひとかけらでもいい。喜ばしいことを心の真ん中において、幸せに満ちた生活を進めていきましょう。