●平和
「重い記憶」
金光教放送センター
(岡本)私はね、戦前、戦中、戦後を生きた男なんです。しかし、戦争を抜きにはできない、昭和16年から20年までの間のことが、私の人生にとっては、一番重い時期であったのように思います。
(ナレ)このように語るのは岡本眞行さん、88歳です。茨城県水戸市にある金光教水戸教会の教会長として奉仕しています。
太平洋戦争が始まる前には、日中戦争で父親が出征するなど、戦争が身近なものになっていました。小学校低学年の学芸会では、担任の先生が考えた、出征する兵士を見送る劇をしたことも印象深いものでした。
そして昭和16年、9歳の時に太平洋戦争が始まります。高学年になると、空襲警報が鳴り、灯火管制が敷かれ、食糧不足を感じるようになります。そして終戦の年、中学校に進学します。「重い時期であった」と言う頃のことを伺いました。
(岡本)私、今でも覚えてんのは、入学試験ていうのは、色々ありますが、音楽の試験もあの当時あったのね。ピアノの横に立たせてね、ドレミファなんていう音階じゃないんだよ。「これは、B-29が飛んでくる音の、高度何メートルの音に近いか」今は信じられないだろうけども。
配属将校っていうのがいてね、それがもう「教練」、軍隊の練習ですよ。無茶苦茶なことをされる。例えば、雨が降ってきたって、濡れるから校舎へ入れとか、傘さしていいとかってものじゃない、隊列行進。自分はね、大きな椎の木がある。その下に入っていればどんなに土砂降りだって濡れることはない、教官は。生徒はみじめなもんですよ、ずぶぬれになったって走らされる。それが通った時代っていうね。
(ナレ)教室での授業はほとんど行われませんでした。時には、水戸から海岸のほうへ10数キロ離れたところへ、塹壕という、敵を迎え撃つための穴掘りに駆り出されました。そこで、戦闘機による攻撃を受けます。
(岡本)休憩時間だったと思いますよ。壕を掘っている作業の、外へ出て。そしたら敵の戦闘機が、そこを飛んだんだ。だから見てるでしょ、みんなばぁっと。そっちはもう狙う被写体ですよこれはねぇ。そして、飛行機ってのは、ばぁーっと下がってきて、撃って、目的を果たしたらしゃーっと上昇するでしょう。あの音だってすごいんですから。だからそれを聞いて、みんな雪崩を打つがごとく、掘った穴の中に、わぁーっとみんな折り重なって、落ちて。私が当たったってしょうがなかったんだけども、すぐそばにいた子どもが当てられてて。その中の一人が死んじゃった。
(ナレ)7月17日深夜、今のひたちなか市は、戦艦からの大規模な砲撃を受けました。隣町の出来事でしたが、水戸市にも影響がありました。
(岡本)日本の太平洋の中で、一番平坦なところは、茨城県ですから、鹿島灘に。そこにアメリカ軍は、とどめを刺すためには、そこに上陸するっていうのは、大体の常識だったみたいですね。まあアメリカの、戦艦5隻かな。それだけのものが、日本に来てっていうのは、もう、最後のとどめを刺すためにっていうことでしょう。大変な、艦砲射撃をしたんですよ。日立へ。そして、あそこにあった軍需工場は、もう全滅に近いかたち。海から飛ばされてくる玉、どっから来るか分からないし、だからもう、たくさんの人が亡くなって。私、焼ける前の教会にいてね、戸棚に逃げた。爆風、どっから飛んでくるか分からないばーっとガラスが鳴ったり。ふすまの戸が揺れたんですから。それくらいの風圧、爆風が来るわけね。そういう恐怖心の記憶っていうのは、今でも、この歳になっても、思い出します。
(ナレ)その後、水戸も空襲を受けます。アメリカ軍は予告のビラをまきましたが、それを憲兵や警察はすぐさま回収しました。たまたま噂を耳にした岡本さん一家は、日中は教会で奉仕する一方、夜だけは2キロほど離れた信者さんの家に避難をしていました。8月2日、そこで、岡本さんは真っ赤に焼ける水戸の町を見て呆然としました。その空襲で、近所の友達が防空壕で亡くなったことを知らされます。
(岡本)私の友だちがね、結局水戸の空襲の時に、蒸し焼きになっちゃったの。あれも残酷だったと思うね。下に入っていたら、上は燃えるんだし、それで下手をしたら、火が入ってきますよね。入ってこない代わりに段々中の空気が熱せられてくる。そしてもう、酸素も段々減ってくるだろう。あの中で、苦しかったんだろうなと思うとね、かわいそうだなっていう気持ちが、うん。
(ナレ)水戸市街のほぼ全てが焼け野原となり、住み慣れた水戸教会も焼けてしまいました。
戦争が終わり、岡本さんは幼い時から水戸教会の後継者になることを親から願われていたこともあり、その願いを受けて金光教の教師となりました。
戦争で身近な友達を2人失い、世界の平和を祈ることが日課となっています。そして、こんにち命があることへの感謝の祈りを捧げます。
(岡本)たいして丈夫な体ではなかったにもかかわらず、そして食糧難の頃、一番成長盛りを過ごしたにしてはね、88歳まで、生きさせてもらうなんていうのは、ほんとにもう、思いもそんなつもりもないことですよ。
最初に申したように、戦前戦中戦後、そういう時代を生きさせてもらったっていうのが、ほんとに、今日あることを含めてなおさらのこと、神様からいただく命、そういうものが、あってこそ、という思いをひたすら強くしますね。