小川洋子の「私のひきだし」 第1回「けーばあちゃん」



●小川洋子の「私のひきだし」
第1回「けーばあちゃん」

金光教放送センター



 皆さん、はじめまして。作家の小川洋子です。本日から5回にわたり、「小川洋子の『私のひきだし』」と題しまして、私が金光教からどのような影響を受け、それを支えとしてどのように小説を書いてきたか、お話したいと思います。
 私は1962年、昭和37年、祖父母が教師を勤める、岡山の金光教岡東こうとう教会の離れに生まれ育ちました。大勢の信者さんに囲まれながら、自然と金光教の空気に包まれて大きくなりました。
 今日は、当時の雰囲気をお伝えするため、自己紹介代わりに、以前書いたエッセイを一編、ラジオ用に編集して、読んでみたいと思います。タイトルは『けーばあちゃん』です。

 その人は本名を三宅みやけさんといい、みんなから「けーばあちゃん」と呼ばれていた。けーばあちゃんは熱心な信者さんの一人だった。
 小柄で、いつも髪を丁寧に結い上げ、お琴と歌が上手だった。掃除や台所仕事や私を含めた子どもたちの守りや、とにかく教会のあらゆる用事を引き受け、それらをてきぱきと穏やかにこなしていた。また、そうすることがうれしくて、ありがたくて仕方ない、という感じに見えた。生活の全てを信仰のために尽くしている方だった。
 もちろん当時の私は、けーばあちゃんの信仰の深さについて分かっていたわけではなく、ただ優しいおばあさんとして、一緒に遊んでもらおうと、一日中くっついていただけだ。
 私の祖母とけーばあちゃんは年齢も近く、教会の人間と信者という間柄を越えて親友同士でもあった。今振り返ってみると、私は祖母とけーばあちゃんを全く区別していなかったように思う。つまり、血のつながったおばあちゃんと、他人という区別をだ。
 私はけーばあちゃんに怒られたり、大きな声を出されたり、邪険にされたりしたことは一度もない。たったの一度もない。そこにあったのは完全な優しさだった。私の存在すべてを許してくれる人だった。
 そんな愛情を、しかも身内以外の人から注がれたことは、たいそう幸せだったと思う。世の中にどこでも転がっている種類の愛情ではないだろう。私にとって、けーばあちゃん自身が神様であったと言ってもいい。
 2歳か3歳の頃、母が盲腸で入院し、けーばあちゃんに預けられたことがあった。私は落ち着きのない目の離せない子どもで、しょっちゅう階段から落ちたり、飴をのどに詰めたりしていたので、母は何か事故が起こりはしないかと心配でたまらなかったらしい。ところが、本当に事故が起こってしまった。教会の前の道で、車にはねられたのだ。
 かすかに、ボディの冷たい感触や、空が舞っていた様子を覚えているような気もする。しかし痛みはなかった。どこもけがをしなかったからだ。車の側面と接触し、そのまま車のスピードに合わせてくるくると回転して、尻餅をついた。ただ目が回っただけだった。
 あの時のことを思い出すたび、申し訳ないことをしたと胸が痛む。もし大きな事故になっていたら、どれほどけーばあちゃんを苦しめることになっただろう。
 けーばあちゃんは80過ぎまで長生きされたが、結局何のお返しもできなかった。あれほどの優しさに報いるためには、何をすべきだったのか、今でも見当がつかない。

 このエッセイを読んだ教会の先生方が幾人も、「うちの教会にも似たような信者さんがいますよ」と、仰いました。それを聞いた時、懐かしいけーばあちゃんの姿が色鮮やかによみがえってきました。そして同時に、私のけーばあちゃんは、死んでいないんだな、と思ったのです。肉体は見えなくなったけれど、私の知らないどこかの教会で、今も神様に見守られながら、大事なお務めをされているのだ、けーばあちゃんは生きている。そんな確かな思いを抱きました。
 人は死んでからもなお、生きることができる。これは究極の矛盾です。しかし、神様の働きは、人間が理屈でこしらえた、生きていることと、死んでいることの境界線など、やすやすと超えてゆきます。けーばあちゃんは、矛盾を乗り越えた先にある、おおらかな安らぎに私を導いてくれています。
 本日は、私の記憶に残る最も古い金光教の体験についてお話させていただきました。久しぶりに自分のエッセイを読み返したことで、大切な人と再会できました。ありがとうございます。
 それでは、また来週、よろしくお願いいたします。

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