信じる力


●こころの散歩道
「信じる力」

金光教放送センター


 ある新聞に次のような見出しがあった。「4歳児がヒーローに変身! 強盗退治」というもの。
 アメリカでのことだった。ある晩、アパート暮らしの一家に、2人組の強盗が押し入り、5歳と1歳の女の子に拳銃を突きつけ、母親に金を要求した。
 ところが、この悪者たちに立ち向かったのが、この一家の4歳の男の子。隙を見て事件現場から抜け出した彼は、大好きなテレビ番組のヒーローが身にまとう真っ赤なコスチュームに着替え、また現場に舞い戻って、「僕の家族から離れろ!」と声を張り上げた。そして「ヤー! ヤー!」と叫びながらプラスチック製の剣を振り回したのだ。不意を突かれた男たちは、母親が投げ出した現金などを奪い、慌てて退散。家族は無事だったという。
 赤、青、黄色、ピンクに、緑と、5人のヒーローが変身し、悪者をやっつける、あの日本生まれのヒーロー番組は、アメリカでも大ヒットしているのだ。
 一歩間違えれば、恐ろしいことになったかも知れないこの出来事だが、それにしても「信じる力」の強さに感心させられる。4歳だからこそ出来たことと、つい思ってしまう私たち大人は、一体これほど信じられる何かを心の中に持っているだろうか。

 長女がまだ3歳だった時のこと。手をつないで、わが家の急な階段を1段また1段と2階から一緒に降りてきた。私が一番下まで来た時、後ろから「ストップ!」と大きな声。振り向くと、本人は私の目線ほどもある5段目辺りに立ち止まり、いきなり私に向かってダイビングしてきた。スローモーションのように映る子どもの顔には白い歯がこぼれている。怖いもの知らずの小さなスタントマンを、私は体全体でしっかりと抱え込んだ。
 「ビックリするじゃないか」と言っても、キャッキャッと笑いが止まらないようだ。
 「怖くないのか」と聞くと、「すごいやろ」と自慢顔。恐怖心が全くないようだ。この子は私を信じている。信じ切っている。その信頼にどんなことがあっても応える私。何があってもこの子を受け止めてやる。

 中学2年生になった長女が、2学期に入り、携帯電話が欲しいと言い出した。「みんな持っている」というこの手の脅しには乗るまいと、妻も私も決意しているのだが、「欲しい、欲しい」の連発である。娘も段々と、暗く反抗的になってくる。親の気持ちを何とか理解して、クラブ活動にも打ち込み、家庭で明るくなってもらいたいと、話題をあれこれ変えてみるのだが、まったく効果がない。
 それどころか、そんな娘の姿に、妻まで頭に血が上り、叱りつけるようになる。
 私もずーっと黙っていたが、とうとう昨晩猛烈に叱りつけた。
 「いい加減にしろ! 買わないと言ったら買わないんだ!」
 娘にすれば突然のことに納得出来なかっただろう。地震・雷・火事・親父。親父は突然怒り出す。いい加減にして欲しいのは、むしろ娘のせりふかも知れない。

 朝になっても、昨晩からの気まずい雰囲気は続いていた。日が経てば解決するだろうとは思うのだが、私の心の中で、何かが引っかかっている。何かが間違っているような気がしてならない。ところがそれが分からない。
 私が携帯を持たせない訳は、青少年を取り巻く社会問題とも関わっていた。携帯を持った彼らが、犯罪に巻き込まれるケースが年々増えているという。彼らは善悪の判断がつかないまま、危ない世界に気軽にアクセスしてしまうというのだ。
 「私のころは、こんなもの無かったのに」
 そんな思いも手伝って、携帯は必要ないという考えに、凝り固まっていった。
 しかし、間違いのもとはそこにあったのだ。
 「待てよ…、私は自分の子どもを信じてないじゃないか…」
 私は、何にもまして大切なことが、ものの見事に抜け落ちていたと、ようやく気が付いた。
 振り返ってみれば、ここまで模範的な親とは決していえない私たちである。けれどもこの子を育てるために、その時その時、精いっぱい信じてやってきた私たちでもあったはずだ。そう思うと、この子を信じてあげることだけが、私が出来るたった一つのことだと思った。
 こちらに背中を向けて座っている娘。
 「お父さんが間違っていた。あなたを信じている」と私は心から言えた。

 真っ赤なコスチュームを身にまとって変身すれば、強くなれると信じた男の子は、信じることで勇気をもらった。大好きなパパを信じて飛び込む小さなスタントマンは、信じることで自分の全てを任せていった。そして掛け替えのない我が子を信じてなかった子煩悩なお父さんは、信じることの大切さに気付き、視界が開けた。
 声なき声に心の耳を傾け、形なきものに心の眼を注ぐ。神仏を信仰するといっても、所詮説明のつかぬこと。結局のところは、信じることがその答えとなる。また信じるその心にこそ神仏も響き合うのではないだろうか

タイトルとURLをコピーしました