敵も味方もない


●平和
「敵も味方もない」

金光教放送センター


(ナレ)福岡県久留米市にある、金光教合楽あいらく教会にお参りしている稲垣明子いながきめいこさんに、戦争体験を伺いました。
 90歳になる明子さんは、昭和6年、9人兄弟の長女として宮崎県で生まれました。今はとても明るく元気に過ごす明子さんですが、生まれてすぐに小児ぜんそくを患い、つらい幼少期を過ごしました。

(稲垣)「もう死ぬ、もう死ぬ」って言うてましたね、発作が出るたんびに。そうした時に、祖母がしっかり私を抱いて、「金光こんこう様、金光こんこう様」って言ってくれたことを覚えております。

(ナレ)祖父母の代から金光教の教会に参拝し、両親も毎日、朝早くからお参りしていたこともあり、困ったことがあると「金光様」と唱えていました。
 10歳頃になると、ぜんそくは次第に治まっていきました。その頃、日本は戦争へと突き進んでゆきます。そして昭和20年、女学校に通っていた3月、宮崎県にも、空襲が始まりました。

(稲垣)宮崎は案外のんびりしてて、空襲なんて全然なかったんですよ。でも、ある時その、空襲警報が出る前に、もう飛行機のほうが来て、そして、焼夷弾、あれをし出したんです。ほいでもう学校もびっくりして、「早く防空壕に入んなさい」ってみんな言われて。そして友達が一人、遅れてきた友達が、機銃きじゅう掃射そうしゃに当たって、一人入り損なった友達が亡くなったですけどね。それから、「疎開をしなさい。疎開する所があったら、全部疎開しなさい」ってことに、なったんです。

(ナレ)明子さん一家は親せきを頼って、今の福岡県みやま市に疎開しました。馬小屋を改装した家で、大家族での生活が始まりました。明子さんの父親は、一人で宮崎に残り、自動車などの部品を販売する仕事をしていました。そうしたこともあってか、お金が無くて困るということはあまり感じませんでした。しかし、物資の統制や配給制度によって、お金があっても自由に買い物ができなくなりました。また、農家が、余分な野菜を自由に売ることも禁止されていました。そんな中、とある農家から野菜を分けてもらえることを知ったのですが・・・。

(稲垣)それはもうねえ、食べ物が無いのが一番でした。もうほんとにね。だから、お母さんがかぼちゃを買いに行ったんです。で、やっと一個分けてもらって、買って帰る時に、派出所の前を通ったもんだから、あの、エプロンの下にこう隠してたん。そしたらそれを、お巡りさんに見つかって、それで没収されて、かぼちゃを。で、母はもう泣きながら、「警察に捕まった、初めて警察に捕まった」って、わんわん泣きながら、帰ってきたのは覚えてますねえ。

(ナレ)配給以外の物は取り上げられる制度とはいえ、母が泣き崩れる姿と、警察から市民が厳しく監視されることに、大きなショックを受けました。
 そして夏のある日、明子さん自身が、死を覚悟する出来事が起こりました。

(稲垣)きょうだい3人で、田んぼの向こうのほうに、ぶどうを作ってある所があったから、買いに行ったんですね。で、田んぼの中を通って帰ってくる時に、突然、アメリカの飛行機が、低空飛行で来たんです。もう、空襲のあれも何もないままに。それでもう、パイロットの顔見えるんですよ。もう、にたーって笑いながら、その時に機銃掃射を始めた。あの、田んぼの溝があるんですね。その溝に、5歳の妹と、10歳の妹と、そして私が一番上になって、そして3人で「金光様、金光様」って、そういったことがあります。そしたらそれを面白がって、機銃掃射で周りをずーっと。それを今度は道の向こうから母がそれを見てたんです。もうほんとに狂ったようにして、私たちの名前を呼んでたんですよね、道の向こうから。

(ナレ)8月9日、ふと長崎方面の空を見ると、不思議な雲が見えました。

(稲垣)私が見たのはきのこ雲。それが、見えたんです。「はあ、あの雲何だろう」っていうような感じなんです。全く世の中とは遮断された感じですから、新聞もラジオも無い所にいてたもんですから。そして今考えたら、長崎の原爆だったんですよね。

(ナレ)そして8月15日、戦争は終わりました。当時の思いを伺いました。
 
(稲垣)戦争に対する思いはほんとに日本は負けて良かったっていうものだった。当時憲兵とかですね、さっき言った巡査とか、もうすごい権力持ってましたからね。だからもし、負けてなかったらこの人たちがはびこって、もう虐げられるようなあれだろうなと思って。

(ナレ)敵から命を奪われそうになり、そして本来なら味方であるはずの警察からも虐げられる。戦争がどんどん人の心を狂わせていくことを感じました。
 その後明子さんは24歳で結婚、夫と共に2人の子どもを育てました。自身や家族の病気など、困ったことがあっても、信心を力に乗り越えてきました。そして何より、つらい戦争を体験したからこそ、出会う人とは争うのではなく、少しでも気持ち良く関わっていきたいと心がけています。
 10年ほど前のこと、80歳にしてスポーツジムに通っていた明子さんは、そこで知り合った人の中に、どうしても気が合わない方がいたそうです。最初は避けていたのですが、ある日、はっと、「神様が出会わせてくれたご縁なのに、仲間外れのようになっては申し訳ない」と思い直し、明子さんのほうから積極的にあいさつするようにしました。すると今では、楽しく語り合える間柄になったと言います。
 身近なところから平和を願う姿を、明子さんから感じるのでした。

タイトルとURLをコピーしました