●小川洋子の「私のひきだし」その2
第1回「運命を愛し運命を生かす」
金光教放送センター
皆さま、おはようございます。作家の小川洋子です。昨年に引き続き、「小川洋子の『私のひきだし』その2」と題しまして、日頃私が金光教をとおして思っていることを、5回に渡り、自由におしゃべりできたら、と考えています。今日はその第1回です。どうぞよろしくお願いいたします。
私は父方の祖父が岡山市にあります、金光教岡東教会の教会長をしておりました関係で、子どもの頃から自然と、宗教的な雰囲気に守られて育ちました。教会の離れに住んでいましたので、教会が遊び場でした。本人が全く意識しないうちに、家族や信者さんから金光教的な考え方を、頭ではなく心で感じ取りながら成長した、と言えるでしょう。
さて、私は文学を勉強するため、1980年、東京の早稲田大学に入学しました。大学時代の4年間お世話になったのが、今も小金井市にあります、金光教の信奉者のための、金光教東京学生寮です。当時、男子寮には30人ほど、女子寮には5人が入寮していました。18歳の私は生まれて初めて、ここで親元から離れた生活を経験することになったわけです。
出身地も大学も家庭環境も異なる者たちが、一つ屋根の下で一緒に暮らすわけですから、面倒な問題がいろいろ起こって当然です。ところが、人間関係のトラブルに悩まされることは一切ありませんでした。私たちは何でも分け合いました。食べ物や洋服や本などといったものだけではありません。最も強い絆で共有したのは時間でした。誰かが悩みを抱えている時、孤独な気持ちでいる時、喜びを伝えたいと思っている時、私たちは相手にいくらでも自分の時間を差し出し、一つの時間を共有し、心を通わせ合ったのです。
初めての合コンに何を着ていったらいいか、名画座で観た映画がどんなに素晴らしかったか、好きな人に振られてどれほど傷ついているか…。今から考えれば、他愛もない内容だったかもしれません。しかし、貧しい私たちが持っている最も貴重なもの、それが時間であり、それを分け合うことが何より相手への思いやりを示す方法だったのです。
私たち5人が同じ価値観で生活を共にできた一番の要因はやはり、バックボーンに金光教の教えを持っていたからでしょう。私は金光教のおかげで、一生の友人と出会うことができました。
そしてもう一つ、生涯をとおして決して忘れることのできない出会いがありました。寮監の中山亀太郎先生です。先生は5歳の頃、買ってもらったばかりの下駄が線路に挟まり、それを取ろうとして汽車にひかれ、両手と片脚を失われました。しかし、お母様の愛と金光教の信心を支えにして、困難の中、運命を切り開いてこられました。学生寮でお世話になった時はもう既に70代の半ばでいらっしゃいましたが、日常生活には何のご不自由もない様子でした。いつも着物姿で、ミシンも使えば自転車にもお乗りになる、という具合で、おそばにいるとつい、お体のことなど忘れてしまうくらいでした。
先生は寮生たちに余計なことは何もおっしゃいませんでした。小言をこぼされたり、不機嫌な様子を見せられたり、雷を落としたり、といったことが一切、一度もなかったのです。先生はただそこにいるだけで、私たち学生に人生の重みを伝えてくださいました。言葉など必要ないのです。先生が背負ってこられた過酷な運命の前で、言葉が何の役に立つでしょうか。無言の中にこそ、言葉にできない真実を感じ取ることができたのです。
先生とお食事をご一緒する機会が何度かございました。先生は片脚と、腕の付け根と、あごを使い、誰の助けも借りずにお食事をなさいました。そのお姿には、どこにも不自然なところがありません。澄んだ風が吹いてきた時、自然に顔を空に向け、目を細め、深く息を吸い込みたくなるのと全く同じように、仕草の全てがありのままで、美しいのです。
先生に「運命を愛し運命を生かす」という題名の著書があります。これほどの運命を背負いながら、それを恨むのではなく、愛し、自らのものとし、それを生かして新しい運命を開拓してゆく。小さな体で、黙々とお食事をされる先生のお姿を前にし、人間はこんなにも自然に自分の運命を受け入れる強さがあるのかと、ただ胸がいっぱいになるばかりでした。
言葉で組み立てられた理屈ではなく、浄化された苦しみが美しい結晶となったような無言の中で、先生と向き合うことができた経験は、私の中で今でも、貴重な宝物となっております。
本日はここまでです。どうもありがとうございました。それではまた来週、よろしくお願いいたします。