●小川洋子の「私のひきだし」その2
第2回「祖母の掌」
金光教放送センター
皆さん、おはようございます。作家の小川洋子です。『私のひきだし その2』。本日は第2回です。
前回は大学時代の学生寮での出会いについてお話ししましたが、今回は時間を少しさかのぼって、子どもの頃の、祖母の思い出を語ってみたいと思います。
今、よみがえってくるのは、小さな体で、背中を丸め、両手を合わせてただひたすら神様に祈っている姿です。あるいは、感謝している、と言ったほうがいいのかもしれません。どちらにしても、祖母にとっては同じことでしょう。祈りは感謝であり、感謝が祈りであったのだ、と思います。
金光教の教会では春と秋の年2回、大きなお祭りがあります。その時、お祭りのあと、お参りにこられた信者さんたちに持って帰っていただく祭り寿司と、豆じゃを作るのが習わしでした。豆じゃ、というのはどうも祖父母の教会独自の料理だったらしいのですが、餅米とうるち米を配合し、大豆を混ぜて炊くご飯です。小豆ではないので、赤飯とは違います。味付けは塩とお酒だけで、ご飯は薄い上品な大豆色になります。それを容器に詰め、片隅に奈良漬けを二切れのせるのを、よく手伝いました。奈良漬けの濃い茶色が染みた部分の豆じゃがまた一段とおいしく、私の大好物でした。
さて、お祭りの日は早朝から信者さんや家族が総出で、この豆じゃとお寿司を作ります。お米を炊く人、かんぴょうやしいたけを煮る人、魚をさばく人、酢飯を作る人、洗い物をする人…。教会専用の広い台所は大騒ぎです。この陣頭指揮を執るのが、祖母です。腰が曲がり、体はいよいよ縮まり、子どもの私から見てもほとんど妖精のように小さかった祖母が、料理に関する全てを把握し、あらゆる作業が滞りなく予定の時間内におさまるよう、差配していたのです。
しかし、祖母は目立つことの苦手な、口数の少ない人でしたから、決して大きな声で命令する、という雰囲気ではありませんでした。黙々と、信者さんたちの間をすり抜けるようにしてあちこち移動しているうち、いつの間にか全てがうまくおさまっている。そんな感じでした。
がやがやした台所の活気と豆じゃの香り。それは私にとって、教会の生活の幸せを象徴する記憶です。その中心にいたのが、祖母なのです。
私や弟が急に熱を出したりすると、母は病院に連絡するよりも前にまず、同じ敷地内にある教会へ走り、祖母を呼んでくるのが常でした。布団に寝かされ、苦しんでいると、中庭に面したガラス窓に、両手を合わせてこちらに向かって来る祖母の姿が映ります。腰の曲がったその小さなシルエットが目に入るだけで、
「ああ、おばあちゃんが来てくれた」
と、母も安堵の声をもらします。まるで、おばあちゃんさえいてくれれば、あとは何の心配もない、とでもいうかのようでした。
「あらまあ、かわいそうになあ」
祖母は息を弾ませながら枕元に座り、
「金光様、金光様……」
と言って背中をさすってくれます。祈りのこもった、祖母の掌の感触が、私の体をすうっと楽にしてくれます。あれは本当に不思議な、理屈では説明のつかない体験でした。病気の私を救ってくれたのは、どんな薬でも名医でもなく、すぐそばにいて、私のために神様に祈ってくれる、祖母の存在だったのです。
祖母は別に、手をかざすだけで病気を治すような、特殊な能力を持っていたわけではありません。祖父を助け、教会を切り盛りしながら、7人の子どもを育て、数えきれないほどの孫やひ孫に恵まれて生きる、ごく平凡なおばあちゃんです。ただ、彼女には揺るぎない信仰がありました。世の中の全てに対し、感謝の念を捧げることのできる信心でした。だからこそ、病気の私を前にしても、おろおろしたり、焦ったりといったマイナスの感情は一切見せず、全てを神様に委ねる大らかな心でいることができたのでしょう。その心は子どもの私にも十分伝わりました。
私が成人式を迎えた日、認知症の進んでいた祖母は、もはや私が誰か、分かっていませんでした。振袖姿の私を見ると、涙を流し、
「奇麗なお方が来てくださった」
と言って、私に向かって両手を合わせてくれました。その手はいっそう小さく皺だらけになっていましたが、祈りの姿は変わらず、神様と向き合う喜びにあふれているようでした。
亡くなってからも祖母はきっと、多くの人々のために祈ってくれているでしょう。苦しむ人々の背中をさすっているでしょう。今でも私の背中にはあの掌の感触がありありと残っています。