●小川洋子の「私のひきだし」その2
第4回「スランプについて」
金光教放送センター
皆さま、おはようございます。作家の小川洋子です。『私のひきだし その2』と題してお話ししてまいりましたこの番組、今日は第4回です。
小説を書いていますと、「スランプはどうやって克服しますか」と尋ねられることがあります。そう質問されるたび、どう答えていいか、困ってしまいます。
果たして自分には、スランプというものがあるのだろうか? まず、この疑問が湧き上がってきます。スランプが何なのか、よく分からないのですから、克服の仕様もありません。しかし、「いいえ、スランプなど感じたことはありません」と答えるのも、何だか高慢な感じがして気が引けます。ですから大抵は、もぞもぞはっきりしないことをしゃべって、どうにかその場を切り抜けます。
もちろん、気分が乗らない日もあります。今日は書くぞと意気込んで机の前に座ったのに、なぜだか1枚も書けなかった、ということもあります。あるいは、何を書いたらいいのかさっぱり分からなくなって、真っ白な空白の中に取り残されたような気分に陥ることもしばしばです。
それどころか、一行一行、一言一言が挫折の連続です。もっといい表現があるはずなのに、もっといい小説が書けるはずなのに、とイメージの中では傑作が浮かんでいるのですが、実際、パソコンの画面に写し出される文章は、その理想とはかけ離れています。書いても書いても、がっかりするばかりです。これこそ自分が書きたかった小説だ、と心から満足することはありません。
そういう意味では、もしかすると私は、毎日がスランプなのかもしれません。あまりにその状態に慣れすぎてしまい、スランプに対して鈍感になっているのでしょう。
別の見方をすれば、スランプが当たり前の状態で、別に克服しようなどと意気込む必要はないのです。デビューしてから今まで、天から言葉が降ってくるようにすらすらと傑作が書けた、などという経験は一度もありません。つまり、スランプを克服した先がどうなっているのかも、分からないわけです。
ある日、担当の編集者から、
「小川さんは信心を持っているから、強いですよね」
と言われてはっとしたことがあります。金光教の信心が私にどんな影響を与えているか、一緒に仕事をしている身近な人は、感じ取っているのだなと気づいたのです。
確かに編集者の言うことは正しいと思います。書けない、という泥沼の中でもがいている時、もがきながらも私は決して絶望はしていません。書けない状態の底の底まで行った時には、金光様が助けてくださる、と心のどこかで信じているからです。意識していようといまいと、その最後の救いを信じる気持ちが、私を支えているのでしょう。
別の言葉で言い換えれば、つまりは、諦めるのです。金光教教典に、江戸時代の末から明治にかけて生きた教祖様のこんな教えがあります。
「何事にも、自分でしようとすると無理ができる。神にさせていただく心ですれば、神がさせてくださる」
あるいは、
「金光大神は、どうにもならない時には、じっと寝入るような心持ちになるのである。あなた方もそういう心になるがよい。どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。じっと眠たくなるような心持ちになれ」
諦めた先が「無」ではなく、そこに神様がいてくださる。そう考えることのできる私は、やはり編集者が言うとおり、幸せ者なのでしょう。遠い時代の言葉が、今の私に生きてつながっているのです。
「自分の書く小説など、たかが知れている。もう、ここまで来たらあとは神様にお任せする。神様に書かせてもらう。それしかない」と思えた時、不思議にふっと、新しい光が射すのを感じたりします。書くべき小説の世界が見えてくる。しかしそれを見ているのは自分の目ではなく、自分以外の偉大な何ものかである。そうしてようやく私は、書き始めることができるのです。
私は、「じっと眠たくなるような心持ちになれ」という言葉が好きです。一生懸命考えろ、努力しろ、というのではなく、眠たくなるような心持ちになれ。とても深い優しさを含みながら、難しい言葉です。小説を書いていて行き詰まると、私はすぐに眠くなるのですが、きっとそんな単純な話ではないでしょう。眠っているのと変わらない無の心にならなければ、新しいものは生み出せない、ということなのかもしれません。まだまだ、小説を書く厳しい修業の道のりは続きます。
今日はここまでです。ではまた来週、よろしくお願いいたします。