●こころの散歩道
「そこまではよかった」
金光教放送センター
3月末のことなんですが、大阪に住んでいるいとこが、久しぶりに我が家にやって来ました。50代半ばの、元気なおばちゃんです。
私は、彼女が来る前の日、「せっかく都会から田舎に来るんだから、そうだ! ツクシを食べさせてあげよう」、そう思い立ちまして、散歩がてらツクシ採りに出掛けました。ところがどこまで歩いても見つからない。普段はあちこちで見掛けるのに、探すとなると、なかなか見つからないもんですね。2時間ほど歩き回って、ようやく鍋一杯分ぐらいの量を集めることが出来、早速きんぴらを作って、いとこを待ち受けました。
翌日、食事の時に出しましたら、いとこは喜びましてね、「わあ、ツクシやないの。これ、デパートで小さい1束が300円もするねんで」と言います。私もうれしくなって、「どうぞ遠慮せずに食べて」と勧めました。一口味をみて、「おいしい!」と言ってくれます。さらにうれしくなりました。
そこまでは良かったんです。
しかしその後、私は思わず悲鳴を上げそうになりました。
喜んで食べてくれるのはいいんですけど、食べる勢いがすごいんです。ブルドーザーみたいに、箸でガガーッと一気にすくい上げて、モリモリ食べる。
皆さんご存じでしょうか。ツクシの料理って大変なんですよ。採ってくること以上に、ハカマと言いまして、茎の周りのギザギザした固い部分、あれを取り除くのに手間が掛かる。しかも、茹でてアク抜きをし、水にさらして、味付けして、ようやく出来上がった時には、鍋一杯あった材料が、片手一杯に縮まっているんですよ。
いとこの食べ方を見て、「ああ、その一口にどれだけ時間が掛かっただろうか」なんて考えてしまいました。
「そうだ、いとこにも体験してもらおう。そしたらきっと、ツクシを見る目が変わるに違いない」
私は次の日、「ツクシを採りに行こう!」と言って連れ出しました。今度は車に乗せて、確実にたくさん採れる場所まで行きました。春の日差しを浴びて、ツクシが辺り一面に生えているのを見て、彼女は予想通り、「わあ! こんな所があるんやなあ。楽園やわ」と喜びました。私も夢中で摘み始めました。
ふと気がつくと、彼女の姿がありません。遠くを見ると、連れて来ていた犬に散歩をさせています。私が再び摘み続けていると、彼女は犬と一緒に何往復かして、通り過ぎるたびに言うんです。
「よっぽど好きなんやなあ。好きやないと、出来へんなあ」
あきれたみたいに言うんですよ。結局ツクシを摘んだのは、ほとんど私ばっかりでした。
家に帰ったらハカマ取りです。「手伝ってくれる?」と言いますと、「手が真っ黒になるやろ。そんなんようせんわ」。
結局私一人で何もかもすることになって、料理が出来上がった時には、「これお土産にくれる? あ、そう、おおきに、ほな全部もろて帰るわな。……そやけど、少ないなあ。ほんまにこれで全部か? もっと採ってもろたら良かったなあ」。
何でこうも厚かましいんでしょうね。んもう、腹が立つなあ……。
けれどもねえ、考えてみたら、私の自業自得なんですよ。
もともとは純粋な親切心で、おいしいものを食べてもらおうとしたわけで、別に自慢しようとも、恩に着せようとも思っていなかった。いとこが喜んでくれたら、もうそれだけで良かったんです。そういう純粋な心は、純粋なままにしておけばいいのに、バカですねえ。つい、余計な心が働いて、その結果、自分で自分を苦しめることになってしまったわけですね。
そういえば、こういう言葉がありました。
「どんな物でも、良い物は、人に融通してやれば人が喜ぶ。それで徳を受ける」
これ、金光教の教えの一つなんですけどね、「徳を受ける」――つまり、自分の苦労や真心は、神様がちゃんとご存じで、ご褒美に徳を授けて下さるんだから、何も人に恩を着せることはないんだよ、というわけです。
人に物をあげる時ばかりじゃありません。たとえば、トイレから出る時に、人が脱ぎ散らかしたスリッパを、さりげなく揃えて出てくる人がいます。道端に落ちているゴミをひょいと拾って、通りすがりのごみ箱に入れる人もいる。誰も見ていなくても、人に評価してもらわなくても、自然体で良いことが出来る。こういう人が、「徳を受ける」人なんでしょうね。
良いことが出来たらありがたい。それ以上余計なことは考えない。それが、今の私の目標です。
また今度、ツクシの季節が巡ってきたら、いとこを呼んでごちそうしようかな。