長女が生まれたときの話


●信心ライブ
「長女が生まれたときの話」

金光教放送センター


(ナレ)おはようございます。今日は、金光教本部にお勤めの竹部弘たけべひろしさんの、令和4年7月22日のお話です。
その前に、ちょっと解説を。
金光教の本部には礼拝施設があって、本部広前と言います。ここでは祭典などが行われ、また、いつでも自由に祈りを捧げることができます。そして、この広前の裏山、石段を81段のぼったところに、金光教の創始者のお墓があって、それを教祖奥城きょうそおくつきと言います。ここも、誰でもお参りできます。
それでは、お話をどうぞ。

(竹部)長女出生時の、私どもの第一子でもありまして、27年前のことですけれども。懐妊のことが知らされまして、予定日が4月7日でありました。夫婦でお腹に向かって、「暖かくなって春になったら出ておいで」と呼びかけながら、また、あるいは、朝6時のご祈念に夫婦でお参りしまして、そのあと奥城をずっと回らしていただく。そのうちお腹が大きくなって、体が重くなってきますと、教祖奥城に上がります階段を、後ろをこう押していくように、いろんなことをしながら日が経っていきまして。で、妻は里の教会に戻って出産を迎えさしていただくということで、少し前に九州へ帰っておりました。
 4月7日、予定日が来ましても、特に何も知らせはありません。「初めての子供は遅れるもんだ」というふうに聞いておりましたので、「ああ、そんなもんかなあ」と思っておりました。8日も何事も無く過ぎまして、9日の朝、里のお母さんから電話がかかりました。「昨日の夜、産気づいて、病院へ入りました」。ええ、男っていうのはのんきなものでしてですね、「昨日の晩から入ってるのなら、今日のお昼ぐらいには生まれるのかなあ」と思いながら、その日は御用に出ましてですね、夜の8時40分か45分かという頃だと思いますけれども、帰りましたら、留守番電話の印がついておりました。「ああ、やっと生まれたのかなあ」と思って留守番電話の伝言を聞いてみますとですね、あちらの弟さんでした。「入院して一昼夜経っても、まだ生まれない。母子ともに弱ってきておりますので、緊急に帝王切開、手術になりました。おそらく9時過ぎぐらいから始まると思います」という、それだけが入っておりました。
 ねえ。「
豈図あにはからんや」というのはこういうことですね。予想もつかないことになりましてね、それで、またすぐにこの本部広前に取って返しましてね、ご祈念をさしていただきました。参拝者席、もう誰もおられなかったと思いますね。ひとりでご祈念さしていただいておりました。雑念が湧きます。「どうしてこうなるかな」と。しかしですね、心の中は、金光様、親先生、双方の両親、自分たちはもちろんですけど、多くの方々のお祈りを頂いてきておることだから、悪いことになるはずがない、という思いが半分以上。でも何割かは、「心配だなあ」という思いがですね、「困ったなあ」というような思いが、あります。
 あちらの弟さんのね、留守番電話を聞いてすぐに、こちらから折り返し電話をしました。そうしたら、今度は里のお父さんが出られましてね。「うん、そうだ。手術になったんだ。帝王切開ていうても、最近はそんな大した手術ではないんだから」と言われたのを、その声を思い出しましてですね、ご祈念しながらその言葉を思い出して、「ああ、そうだそうだ」と安心の心が、ふうっと大きくなる。ところがお父さんがまたそのあと続けてですね、「でも、手術は手術だから」と言う、その声がまたなんとくぐもったように聞こえましてね、それでまた心配の心も出てくる。
 まあ、そんな思いを行ったり来たりしながらご祈念さしていただきまして、そのあと本部広前から今度は教祖奥城へ参りましてね、引き続いてご祈念さしていただいておりました。どれぐらいご祈念していたか、時間はちょっと分かりませんけれども、その途中で、「何事も皆、神の差し向け」と、聞こえたような気がしました。もちろん普通に聞こえたんではありません。聞こえたんではありませんけれど、ふと思った、というのとも違うような。なんでしょうね。からだ全体の中で、なんか響いているような、そういう、はっきりと言葉なんですね。「何事も皆神の差し向け」。
 「差し向け」っていうのは、まあ古い言葉ですわね。「送る」とか「遣わす」とかいう意味ですね。神様がこの事を送ってこられているんだ。そしてまたそれは、神様の思い、人の助かりのために、神様の思いと働きが動き出しているということでもありますね。「ああ、この手術は神様からのお差し向けでございますか。ああ、そうでございますか」と、ねえ。今この時に、世界中でどれだけの親子が出産しているのか分からないけれども、この親子にはこの手術が一番いいのだ、というものを、神様が送ってくださっておるんだなあと。ああ、そうでございますかと。ああ、ありがとうございます。では、その神様からのお差し向けのこの手術が成就いたしますようにと、そういうふうにご祈念の向きが少し変わりました。心の向きも変わりました。
 そういうことで、ご祈念を済ませまして、宿舎へ帰りまして、しばらくしましてから電話がかかってきまして、また、あちらのお父さんからでした。「生まれたよ」。無事生まれました。「女の子やった。器量よかばい」って、ねえ。器量ええぞ、ということまで言うてくださいましてね、ああそうですか。今度は宿舎のご神前でお礼のご祈念さしていただきました。
 これは27年前の長女出生の時のことでありますけれども、しかし、人間生きている限り、いろいろなことが起こってまいります。その時に、ああ、生まれる時に「神の差し向けだ」と言っていただいたけれど、あれは、あの時だけのことではなかったんだなあと。今、この時にも、そのことが、その神様の願い、あるいは「これを分かりなさいよ」と言われた思いが、今もその中にあるんだろうなあと思わされることが、たびたびありました。まあ、その真っ最中であるということでございまして、続きはどのようになりますか。

(ナレ)いろんな出来事の向こう側に、神様の働きと願いを感じ取ってこられた竹部さん。これからも何があっても無くても大丈夫。だって神様が一緒なのだから。そんな明るい力強さを感じました。

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