小川洋子の「私のひきだし」その3 第1回「祖父のひざの上で」


●小川洋子の「私のひきだし」その3
第1回「祖父のひざの上で」

金光教放送センター


 皆さま、おはようございます。作家の小川おがわ洋子ようこです。一昨年、昨年と引き続きまして、今年もまた「私のひきだし その3」と題し、お話しさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
 私の父方の祖父は、岡山市にあります、金光教岡東こうとう教会の教会長をしておりました。12歳まで教会の離れに住んでいましたので、子ども時代の思い出はほとんど全て、教会の風景の中にある、と言ってもよいほどです。
 祖父は、世間一般の宗教者のイメージとは少し違っていたかもしれません。信者さんとお酒を飲みながら話をするのが何よりの楽しみで、冗談を言っては大笑いし、神様に受けたおかげの話になると涙を流す。私が知っているのは最晩年の祖父ですが、とにかく人間臭い人でした。
 一度、徳利とっくりのお酒をお猪口ちょこに注いだところ、ゴキブリの死骸が出てきたことがありました。信者さんたちは皆、ギョッとして言葉を失くしたのですが、祖父は、「今日のお酒が一段とおいしかったのは、ゴキブリの味が染みたおかげじゃ」と言って、入れ歯が外れるほど笑い、一向に気にする様子もなく、残りのお酒もありがたそうに全部飲んだのでした。
 また、孫をからかうのが大好きで、わきの下をくすぐったり、お化けのまねをして怖がらせたりするのです。
 「おじいさん、いいかげんにしてください」と、祖母にたしなめられるのもしょっちゅうのことでした。
 そういう時でも祖父は心の底から喜んでいました。私は愉快なおじいちゃんが大好きでした。今から振り返ってみれば、祖父は金光教の教えの中で、生きていること、生かされていることのありがたさを、全身で表現していたのではないか、と思います。
 夕暮れ時、祖父はよくベランダの寝椅子に横たわり、長い時間、空を眺めていました。若い頃、肺ジストマにかかり死にかけたところ、金光教の信心で救われたこと。長男が大学を出て間もなく結核で死んだこと。祖父は、決してただ単に陽気なだけの人ではなく、私にはうかがい知れない様々な困難を経験していました。特に長男を亡くした悲しみは深く、家族で食事をしている時など、ふと死んだ長男の名前を誰かが口にすると、
 「その話はしてくれるな」
とつぶやくのでした。これほど沈んだ声が人間に出せるのか、と思わず箸を持つ手が止まるほどでした。
 きっと祖父にとっては、信心の意味を問い直す体験だったのでしょう。もしかしたら、結論は出ないまま、もがき苦しむ渦中にあり続けたのかもしれません。
 「毎日見とるけど、同じ雲は一つもないなあ」
 祖父は言います。
 「洋子もこっちへ来て、一緒に見られえ」
 私は祖父のひざの上によじ登ります。
 「ゆっくり風に流れて行っとる」
 夕焼けに染まる雲が空の向こうに細長く伸び、うっすらとした月も上り始めています。
 私たちはただじっと空を眺めていました。あれは一体、何と表現したらいい時間だったのでしょうか。子どもの私には自然の美しさを味わう感受性などなく、ただお尻の下に、祖父の痩せてごつごつした体を感じるばかりです。けれど、それが大事なひと時であり、黙っておじいちゃんに寄り添っていなければならない、ということだけは分かるのでした。
 金光教の教祖、金光大神こんこうだいじんの教えを集大成した『金光教教典こんこうきょうきょうてん』に次のような言葉があります。
 「天と地の間に人間がいる。天は父、地は母である。人間、また草木など、みな天の恵みを受けて、地上に生きているのである」
 一つとして同じ形はなく、常に移り変わってゆく自然の摂理の中に、祖父は偉大な者に受け止められている安心感を得ていたのだと思います。あの静けさ、あの空の広さ、美しさ、ベランダでの記憶の全てが、祖父の信仰の根本につながっている気がします。
 「世界を救ってくださいよ」
 祖父はよくそう言って信者さんの両手を握り締めていました。
 「自分のことは次にして、人の助かることを先にお願いせよ。そうすると、自分のことは神がよいようにしてくださる」
 これも『金光教教典』の言葉です。遠い空を見つめるような広い心で信心する。個人の苦しみを乗り越えて他者のために願うような信心をしてほしい。祖父はそんなふうに言いたかったのでしょうか。
 大人になった今、祖父とあのベランダで一緒に空を見つめたい。私はかなわない夢を見ています。
 本日はここまでです。どうもありがとうございました。では、次回、またよろしくお願いいたします。

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