小川洋子の「私のひきだし」その3  第5回「我(が)を去る」


●小川洋子の「私のひきだし」その3
第5回
を去る」

金光教放送センター



 皆さま、おはようございます。作家の小川洋子おがわようこです。「私のひきだし その3」と題してお送りしてきましたこの番組、本日が最終回となりました。
 ここ数年私たちは、新型コロナウイルスの世界的な流行によって、様々な困難を経験しました。これほど科学技術が発達した現代社会にあってもなお、未知の生物に命をおびやかされるのかと、改めて自然の厳しさを突き付けられるようでした。
 抵抗する人間の裏をかくようにして、ウイルスは次々変異していきます。自らが最も効率よく生き残り、増殖してゆくために、人間をうまく利用します。人間だけが偉いのではない、目に見えない小さな生き物たちも、賢さを持っている。今回のパンデミックは、つい傲慢ごうまんになって忘れがちな真実を、思い出さてくれました。
 生き物の進化の先頭に立って威張っていますが、人間が一番賢いわけではないのです。小さなウイルス一個にさえ振り回されている始末です。以前、東京大学宇宙線研究所の先生に、宇宙を構成している物質のうち、いまだ正体の分からないものが7割近くもあって、それらはダークマター(暗黒物質)と呼ばれている、と教えていただいたことがあります。それを聴いた時、人間を取り巻く謎の奥深さに圧倒されました。私たちは分からないことだらけの世界で、どうにかこうにか、頼りない命の綱をつないで生きているのです。
 分からないのは何も外の世界ばかりではありません。自分自身もまた、神秘的な謎の存在です。自分のことは自分が一番よく分かっているなどと、とても胸は張れません。むしろ、一番理解不可能なのは、自分という存在かもしれません。
 3年ほど前、歯の治療をきっかけに、み合わせが狂い、それにとらわれているうち、首が痛くなってきました。歯医者と整形外科を何軒も巡り、あらゆる治療をしましたが、痛みは強くなるばかりで、一向に治る気配がありません。とうとう横になったまま、立ち上がれないほどの痛みにさいなまれるようになりました。そして最終的にたどり着いた心療内科の先生に、歯も首も、どこも悪くありません、その痛みは、あなたの脳が勝手に作り出しているのです、と診断されました。
 えっ、これほど強烈な痛みが、幻だというのか…。私は驚き、半分泣きながら、どうにかしてください、これでは仕事になりません、と訴えました。
 「小川さん、あなたは今、仕事ができる状態ではありませんよ」
 静かに先生はおっしゃいました。その時、不意に視界が開けたのです。どんなに痛くても私は仕事だけは穴を開けないよう、頑張っていました。仕事を休む発想がそもそもありませんでした。そこに、「休む」という選択肢が現れたのです。
 つまり、体は休みたがっているのに、頭はそれに気付かない。だから痛みによって、体が私に信号を送っている。そう説明されて、深く納得しました。私には自分の体の声が聴き取れていませんでした。それを無視して勝手に無理を続けた結果、安全弁が外れたというわけです。
 自分の心の内にも、宇宙と同じくらいのダークマターがあふれているようです。先生の説明を聴きながら、人の体とは何と神秘的なのだろうと、ある種の感動を覚えました。と同時に、危機を知らせてくださったのは神様だ、と気付きました。神様が私に痛みを差し向けてくださったおかげで、初めて私は休むという勇気を得られたのです。
 金光教の教祖金光大神の教えに次のようなお言葉があります。
 「何事にも無理をするな。を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ」
 仕事を頑張っているつもりが、いつしかそれは我を出すことになっていたのかもしれません。編集者に褒められたい、売れる本を書きたい、皆からよくやっていると思われたい、そんな我です。自分のちっぽけな計らいになどこだわらず、とにかく神様にお任せして、療養に専念することにしました。おかげで先生も驚くほど薬がよく効き、やがて首の痛みは去りました。
 神様は全てご存知です。コロナもダークマターも、一人ひとりの人間も、全ては天地の間に受け止められています。そう信じることができれば、余計な心配をする必要などありません。ままよ、という安らかな心持ちになれる。そのことこそ、まさにありがたいおかげだと思うのです。
 5回にわたり、お話しさせていただいたのは、金光教と私の素朴な心の関わりでした。たとえ一言でも、お心に響いたものがあれば、と願うばかりです。聴いてくださった皆さま、どうもありがとうございました。

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