後ろへ下がるな


●信心ライブ
「後ろへ下がるな」

金光教放送センター


(ナレ)今日は、大阪府・金光教さかい教会の白神吉江しらかみよしえさんが、令和5年8月に金光教玉水たまみず記念館でお話しされたものをお聞きいただきます。
 白神さんはこの時、働いているお店で、あるイベントを企画していました。しかし、いろいろな壁にぶつかり、うまく物事が進まなくて、もやもやとした気分にとらわれていたそうです。

(白神)今日は「おかげを頂く」ということについて、皆様と一緒に考えさせていただきたいと思います。皆様は、おかげという言葉は聞かれたことがあると思いますが、皆様はどのようなおかげが頂きたいですか? 例えば、「豊かでありたい」ですとか、「幸せでありたい」「健康でありたい」、いろいろと望みがあると思います。生きているとそういった欲がありますよね。それは生きる糧でもあります。おかげという言葉について調べてみると、「人や神様の助けなどによって受ける恩恵」とありました。
 実は最近のことなんですけども、仕事から帰ってきて、家の駐車スペースに車を止めようとしたんです。フェンスに囲まれた場所なんですけども。ある一定の所まで下がって、本来ならそれで十分なんですけども、ちょうどその時、むちゃくちゃ考え事をしておりまして、考え事のかたわら、駐車をより上手に見せようと思って、あと20センチほど下がろうとしたんですね。同時に全然違うことを考えているような状況です。でね、考え事のほうで、ちょっと落ち込んでいたんで、気合を入れたんですね。「よっし!」。で、その気合を入れた時のシフトレバーが、リバースです。バックギアですね、後ろに下がるギアです。
 で、私、その状態で思いっきりアクセルを踏んじゃったんですね。これね、ニュースでよく見かけるあの状況ですよね。一瞬で大きく後ろに下がったので、バコっと何かにぶつかりました。まるで遊園地のアトラクションに乗ってるかのように、ドカーンと揺れて。「あー、やってしまった」と思って。とてもショックで少しの間、動けませんでした。車の中で、考え事のほうも駄目になるサインなのかなぁって。少しネガティブに考えてしまうんですね。
 それで、ご祈念をして、まずお詫びをしました。「すいませんでした」と。考え事をしながら運転していたことや、自分の思い上がりに対して、お詫びをしました。恐る恐る車の外に出て、後ろを見に行きました。岩か何かに当たったと思っていたら、そこまでボコボコじゃなかったんですね。「あれっ? 何に当たったんだろう?」と思って、その後ろを見ると、少し怪我をした太さ20センチくらいのカシの木がそこにありました。柔かい木に当たることで、それほど大きなヘコミにもならず、フェンスも突き破らず、岩とかにも当たらず、人にも当たらず。ましてやコンビニだったり、スーパーの窓ガラスをぶち破ったりもせず。本当、これだけでもおかげだらけですよね。
 確実に自分の不注意です。でも起こしてしまったことは仕方ない。でもそのようなことでも、大難を小難にまつりかえてくださっている、大きなおかげですよね。で、私はしかしその時はまだ、おかげを頂いたな、と思えていなくて、「申し訳ないな」の気持ちでいっぱいでした。こんなに至らない自分を、こんなにも、いつも、いつでも守ってくださっている。神様に対して、もう一度自分をしっかりと持ち直させていただかないとなと思いました。
 教会へ帰ってご祈念をして、思わせていただいたことは、「後ろへ下がるな」でした。これはホント、自分にとっても都合のいい捉え方なんですけども、考え事のほうも、車のほうも、後ろへ下がるなと。前向きに進むことですね。いつも神様は、助けながら導いてくださってます。それをそのままありがたく頂いて、ぶつけちゃったけど体は無事で、大難は小難に変えてくださったことも、おかげ。メッセージとして、そういうふうに受け取らせていただいたことも、おかげ。そこを一つ信じて前向きに進ませていただこうと思いました。
 信心や信仰の形は、十人いれば十通りあります。おかげの形も、十人いれば十通りあります。どうぞ日々の生活の中で、おかげを探していきましょう。探してみれば、おかげだらけかもしれません。生きていて起こること、全ての事柄の側面は、おかげなんだろうなと思わせていただいております。一見するとつらい出来事。「なんで自分はこんなについてないんだろう」ですとか、「なんで自分ばっかりこんな目に遭うのか」ですとか。そう思うような出来事。それらは何かを気づかせるために起こっている場合もあるかもしれません。そこでもし気づけたら、オセロのように、つらい出来事、それ自体がおかげだったんだと、ひっくり返りますよね。

(ナレ)いかがでしたか。「生きていて起こること、全ての事柄の側面は、おかげなんだろうな」という言葉。考えさせられます。
 私の家の近所に、いわゆる「開かずの踏切」があります。その踏切に引っかかると、本当にいつもイライラして電車が通り過ぎるのを待っていました。しかし、ある金光教の先生のお話で受け止め方が変わったんです。それは、踏切で、一生懸命に手を合わせて、どうぞ事故がありませんようにと、運転手さんや乗客の皆さんの無事を祈っている方のお話でした。
 その話を聞いてからは、その踏切に引っかかっても、「ああ、人のことを祈ることができるおかげを頂いた」と思えるようになったんです。イライラがゼロになったわけではないですが、随分と減りました。私にとっての大きなおかげです。
 皆さんの回りにもたくさんあるおかげ、人それぞれに与えられたおかげ。見つけることができたら、お礼を言ってみましょう。「おかげさまで」。

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