●もう一度聞きたいあの話
「芽生えに培う親として」
大阪府
金光教佐野教会
福嶋和一 先生
春は草木が芽生え育つ季節でありますが、子どもたちもまた、もうじき訪れる4月の入学、進級、進学ということで、芽生え育っていくという感じがいたします。一年一年成長していく子どもの姿を見ておりますと、親としては大変ですが、うれしく楽しみなことであります。
ある町で、文房具店を営んでいるSさんは、店に学用品を買いに来る若いお母さんや、お父さんをつかまえては、次のような話をよくするのだということです。
「子どもが幼い間は、世間のことわざのように『はえば立て、立てば歩めの親心』で、ああもしてやろう、こうもしてやろうと、親は心を配って、しつけもし、育てもします。たとえ、子どもがうるさがっても、文句を言っても、立派な人間になってほしいと願って、それが少しも苦になりません。親ばかというか、不思議なものです。ところが、子どもが大きくなってきますと、親として、苦になることが増えて、時には、腹の立つことさえあります。これほど、この子のためを思うてやっているのにと…。今のあなたには、お分かりにならないかも知れませんが、子どもを育てることが苦になってきたら、一度、育てることをやめて、親とは何か、考えてみられるといいですよ。私は、息子のことで失敗しました。遅まきながら、今、親としての私を反省しています。そうして、息子が本当に立ち行くことを願っているのです」と、Sさんは、にこにこしながら、手作りのカードを品物に添えてお客さんに渡すのだということです。そのカードには、ペンで「ちちははも 子供とともに 生まれたり 育たねばならぬ 子もちちははも 金光教教主の御歌」と書いてあります。
Sさんは、息子さんのことで、次のような、つらい経験を持っているということです。それは、親として、わが子への深い愛情と、大きな期待から出てきた事柄であったかも知れません。小学校しか卒業していないSさんは、息子だけは大学までと願い、一流の私立中学、一流の高等学校へと、エリートコースに乗せました。息子さん自身も、最初は一生懸命だったということです。ところが、どこで狂ってきたのか、勉強しなくなり、注意すると反抗するし、ついには暴走族に加わって、家庭裁判所から、何度呼び出されたか分からないほどになったといいます。彼女ができて、ほとんど家に帰らないという状況が続いて、毎日、毎日、息子さんのことで商売も手につかなくなりまして、苦労したということです。
思いあまったSさんは、近所の金光教の教会を訪ねて、「相談に乗ってください」と願われました。
親と子、と一口に言いますが、それぞれの親と子とが生きるということを考えてみますと、本当に大変なことです。息子がどんなことを引き起こしても、親であることをやめるわけにはまいりません。その問題をもって、親として生きてゆくほかありません。
Sさんは教会に参拝し続け、いろいろと教えを受けてゆくうちに、親としてのあり方の間違いに気づいたと、次のように話していました。
「子どもの幼い間は、親が守ってやり、人として立派に育ってくれるように願い、しつけることが大切かも知れません。しかし、子どもには神様が、自ら育つ働きを与えてくださっていたことを、私は見落としていました。私の子どもを見る見方、接し方が、小さい時の子どもを見る見方、扱い方から一歩も進んでいなかったことに気づいたのです。盆栽をご存知でしょう。あれは苗木の時から、鉢に植え、枝はこういうように、幹はここで曲げてと、針金でがんじがらめにして、何年もかけて作ってゆく芸術品です。しかし、自然に備わった植木の性質に逆らったのでは、いい盆栽にはならないそうです。私は、息子が持っている性質に逆らって、知らず知らずに、つまらない盆栽にしようとしていました。ましてや、息子は植木とは違います。大きくなれば、独立した考えを持ち、自身で生きてゆく力も育ってきています。それを、親の考え方という鉢に植え、ああでなければ、こうでなければと、しばりつけようとしていたわけです。それでいて、私は親として、どれほどの親でもなかったわけです。私は息子を呼んで、私の間違いを話し、わびました。今はただ、息子の立ち直りを願い、親としての本当のあり方を求め続けている毎日なのです」と、Sさんはこのように話していました。
金光教の教祖は、訪ねてくる人々に、子どものことを「若葉」と呼んで、その自然な成長を大切にすることを教えています。教育についても、「手習い・読み書き・算盤は、したい者から次第に習わせてやれ」と諭しています。子どもの心に芽生えてくる自然な要求に応じて、それを摘み取ることなく、急がず、順々に教えてゆくということでしょう。そして「子ども繁盛を願え」と教えていますが、子どもの真の立ち行きを願っていく親になる、そのことが大切だと教えています。
とかく私たちは、あまりにもせっかちになりがちであり、自然な動きに逆らって事を構えて、事をなしがちであります。そして、子どもが育ってきたことへの感謝と、自分が子どもの親になっていくことへの努力を差し置いて、私が子どもを育ててきた、完全な親だというような顔をして、子どもに無理強いしている面があります。それが、たとえ現代の風潮だとしましても、子どもの真の立ち行きを願い、それを中心に考えてみますと、自然の働きに礼を申し、広く大きな心でありたいものです。そして、金光教の教主が「ちちははも 子供とともに 生まれたり 育たねばならぬ 子もちちははも」と歌っているように、親自身が、まずもって自然の道理に逆らわぬ生き方を、日々求め続けて、自らが育ち、芽生えに培える親になる努力を、続ける毎日でありたいと思います。
(昭和52年3月23日放送)