●小川洋子の「私のひきだし」その4
第4回「たった一人の誰かのために」
金光教放送センター
皆様おはようございます。作家の小川洋子です。『私のひきだし その4』と題してお送りしてきましたこの放送も、本日が最終回となりました。今日は小説を書くということの意味を、改めて考えてみたいと思います。
先日、アニメーションや映画、ドラマの音楽を主に作られている梶浦由記さんと対談する機会がありました。映像を生かすための音楽を作る難しさは、独特です。自分の表現したいことを好きに形にすればいいわけではなく、映像を主役に考えなければいけません。
「つらいよう、苦しいよう、もう辞めたいようの繰り返しです」とおっしゃっていました。
その点は、私も同じです。何作小説を書いても、コツをつかめる、ということがありません。むしろ逆にどんどん難しさが分かり、自分の作品の未熟さに嫌気がさして、ああ、今日もまたあの続きを書かなければならないのか、という憂鬱な気分に陥ります。
ただ音楽家の場合、自分の作品が演奏家や歌手によって新たな魅力を発するようになります。コンサートで披露すれば、多くの人たちと感動を共有する喜びが得られます。
「作家はそのような達成感をどうやって得ていらっしゃるのですか」
梶浦さんは少し心配そうに質問されました。
確かに、小説が完成したからと言って、大きな拍手が沸き上がるわけではありません。編集者と手を取り合い、喜びのダンスに酔いしれることもありません。
けれどごくまれに、神様はご褒美を下さいます。以前、東京の高校に行き、生徒さんたちと私の小説について対話をした時です。一人の女子学生が『猫を抱いて象と泳ぐ』という本を読んだ感想を語りながら、泣きはじめたのです。感情をあらわにする泣き方ではなく、勝手に涙がこぼれ落ちてくる、という静かな表情でした。
この小説は、チェスの天才的才能を持ちながら、体が大きくなれない運命を背負った青年が、からくり人形の中に隠れ、生涯世間に身をさらすことなく、最強かつ最も美しいチェスを指す、という物語です。ラスト青年は、火事により、チェス人形とともに焼け死んでしまいます。
「どうして自分が泣いているのか、分かりません」
と女子学生は言いました。私は涙の理由を尋ねませんでした。人が本当に心を動かされた時、理由の説明など必要ありません。言葉で書かれた小説を読み、言葉の届かない心の奥底にある泉が揺さぶられる。これほど人間にとって豊かな読書体験はないでしょう。しかも、彼女の心の泉を涙に替えたのは、私が書いた小説だったのです。
世界では戦争や自然災害で苦しむ人々が絶えません。作家の私は、そういう人々に対し、何の手助けもできません。しかし、たとえたった一人であっても、私の小説をなくてはならないものと思ってくれる読者がいる。彼女の心に秘められた苦しみに、チェスの青年が寄り添ったからこそ、こぼれた涙だったのだ。
私にとってこの経験は、もったいないほどの感動を与えてくれました。小説を書いてきてよかった、と素直に思えました。
普段作家は、読者と直接顔を合わせる機会はほとんどありません。けれどそれでいいのです。一冊、本になって世に出てしまえば、最早、その作品は読者のものになります。一冊の本と一人の読者。一対一の関係が生まれ、そこに作者が入り込む余地はありません。その一対一の結びつきが強ければ強いほど、つまり、作者が置き去りにされればされるほど、よい小説なのだと思います。
川端康成は『文学的自叙伝』の中で次のように書いています。
「私が第一行を起すのは、絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思いを、あきらめ棄ててかかるのである」
賞賛を求めず、あきらめから出発する。そう考えると、小説を書くのは残酷な仕事です。しかしどんなに追い詰められても、絶望はしません。私には金光教の信心があるからです。
「一生死なない父母に巡り会ったと思って、何事でも無理と思わないで天地金乃神にすがればよい」
『金光教教典』の中の言葉です。一生すがれる神様がいてくださるのですから、安心して、ひたすら小説を書くだけです。世界を救うのは、たった一人を救うことからはじまる、と信じて。
『私のひきだし その4』は、ここまでです。この放送を通じ、皆さまと出会えましたことに、感謝申し上げます。最後までお聴きくださって、どうもありがとうございました。