選んでくれたネクタイ


●特選アーカイブス
「選んでくれたネクタイ」

岡山県
金光教与井よい教会
善積晃よしづみあきら 先生


 もう10年も前のことになりますが、ある日子どもらが買いたいものがあるというので、家族で福山にショッピングに出かけました。デパートに入ると、高校3年の息子が中学1年の娘に、「ネクタイ売り場はあそこだ」と言って、急ぎ足でそのほうへ行きます。私も二人の後からついていきますと、子どもらは早速ネクタイを選びはじめました。子どもが私にネクタイをプレゼントしてくれるなどとは、思いがけないことでしたから、いささか驚きました。
 やがて二人は、それぞれ一本のネクタイを手にとって、どちらにしようかと見比べています。私は、「お小遣いもめったにやらないのに、お年玉でも貯めていたのかなあ。それにしてもうれしいことだ。思いやりのある子を持って、私はなんと幸せ者か」と胸に込み上げてくるものを感じておりました。
 「お父ちゃん、これ二本ともよかろう」「そうだな。どちらもいい柄だな」「それなら二本にしよう」。二人は割に値段のいいネクタイを二本も私に買ってやるというのです。「そんなに無理しなくてもよいのに」と思っても、言葉が出てきません。ただただうれしくて。
 店員さんは、ネクタイを包みかけています。すると子どもらが口を揃えて、「お父ちゃん、早くお金を出しなさい」。あっと驚く私は、あいた口がふさがらなくて次の言葉が出ません。子どもらは、ネクタイを買ってくれたのではなく、選んでくれたのでした。お小遣いの乏しい子どもらにしてみれば、自分たちの買い物をしてくれる親に、せめてネクタイでも選んであげようと、相談していたのでしょう。
 時すでに遅く、返品するわけにもいかず、私は財布から千円札を何枚か出して、二本のネクタイの包みを受け取りました。子どもらは、お父さんの気に入った柄を、選んであげてよかったと思っているのでしょう。あきれているおやじの心も知らず、鬼の首でもとったような顔をして、次の売り場へと行きます。思いがけない子どもらの計画に、私は苦笑いをしながら、二人のあとを追いました。久しぶりにたくさん買い物をした子どもらは、楽しそうに、はずんで帰りました。
 それから、私がその二本のネクタイを好んで大事に使用していると、子どもらは「きまっているよ」とか、「よく似合うよ」とか言ってご機嫌です。私が「二人が選んでくれたんだからなあ」と、いくらか皮肉まじりの返事をしても、そんなことは問題にしておりません。お父さんがそのネクタイをしてくれたら、それで子どもらは言うことはないのです。
 娘が中学3年になった時でしたが、「私が就職したら、もっといいのを買ってあげるからね」と言いました。もう選んであげただけではいけないと考えたのでしょう。「あてにせずにいつまでも待つよ」と言いましたが、私は子どもらが、たとえ物など買ってくれなくても、親のことを思っていてくれることが、何よりのプレゼントだと思っておりました。
 やがて、息子は大学を卒業して就職し、娘は高校2年になり、私の誕生日の夕食の時、「これ、二人で選んだ。お父さんにプレゼント」と言って、箱に入ったネクタイを差し出しました。私が目を細めてうれしそうな顔をするのを、子どもらは満足げに見ていました。二人の子どもが選んでくれて以来、私にプレゼントすることを思い続けていてくれたのだなあと、しみじみ幸せを感じ、ありがたい気分に浸ったのでした。
 選んでくれたネクタイも、プレゼントしてくれたネクタイも、今では結ぶところが少し擦れてきました。随分使わしてもらいました。子どもらの思いがこもっているからか、頑張らなくてはと、心が勇みました。
 私が戦時中、学徒動員で作業に出て、おやつに二個ずつ配られるパンを一個残して、病気で寝ている父に持って帰ったことがありました。父は「おいしいパンだな」と、目に涙を浮かべて食べたあと、「作業でお腹が空くのだから、お前が食べればいいのに。わしは寝ているのだから、お腹は空いていないから」と言いました。それでも私は、父があんなに喜んでくれるのだからと、何回か持って帰りました。父が亡くなった後で聞いたのですが、見舞いに来てくれた人たちに、そのパンのことを心から喜んで話していたそうです。
 ネクタイのことでも、一個のパンのことでも、まことにささやかなことですが、親を思う心は、何物にもかえられぬ尊いものだと思います。考えてみると、ネクタイに限らず、子どもなりにいろいろと思ってくれているようです。そのことを親である私がもっともっと大きな喜びにしていかなければなりませんが、気がつかないことが多いなあと反省するばかりです。
 私の両親の信心の師匠である佐藤範雄さとうのりお先生が「親思う心に親は居ますなり守れ我身を親と思いて」という歌を詠んでおられます。
 私は、毎日霊前れいぜんでこの歌を唱えて、いつも親先祖のことを忘れないように、たとえこの世にいない親でも、自分のこの体の中に生きているのだから、日々の生活を大切にして、親が安心してくれるような、良い生き方をしていきたいと願っております。
 金光教祖は、「親のことは子が願い、子のことは親が願い、あいよかけよで頼み合いいたせ」と諭しています。この教えのように、生涯親子が互いに思い合い、願い合っていきたいのでありますが、私自身が、まずよい親にならせてもらわなくてはならないと、心に鞭打っております。

(昭和59年1月18日放送)

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