どう生きていくのか


●私の本棚から
「どう生きていくのか」

兵庫県
金光教
阪急塚口はんきゅうつかぐち教会
古瀬真一ふるせしんいち 先生


 おはようございます。兵庫県、金光教阪急塚口はんきゅうつかぐち教会の古瀬真一ふるせしんいちと申します。
 人間、生きている間には、これ以上はないというほどの、つらく厳しいこと、腹立たしいこと、悲しいこと、心配でならなくなるようなことが、思いがけず降りかかってくることがありますよね。その時、あなたはどんなふうに生きていくでしょうか。
 今日は、私の本棚から、1998年3月に金光教教誨師会きょうかいしかいから発行された『ともに心をひらいて―教誨きょうかい教話集―』という本を持ってきました。
 ご参考までに、「教誨教話集」という本の名前にある「教誨きょうかい」という言葉。これは、「教え諭す」という意味です。「チャーチ」の「教会」とは違う字を書きます。刑務所や少年院などでは、ボランティアの宗教者が、収容されている人の希望に基づいて施設に出向き、物事の捉え方や考え方、人との関わり方などを調え、改めていく助けとなることを願って、「宗教教誨」が行われています。その、宗教教誨に取り組む金光教の先生たちが、宗教教誨の場で話されたものをまとめたものが、『ともに心をひらいて』というこの本です。今日は、その中から、長崎刑務所で活動されていた酒井満信さかいみつのぶさんによる「人を責めない生き方」というお話を一部抜粋して紹介したいと思います。
 お話は、こんな状況から始まります。酒井さんが奉仕している教会にお参りしていた信者さんの娘さん、中学一年生が、交通事故に遭いました。塾帰りに横断歩道を渡っていた時、脇見運転の車に跳ね飛ばされ、頭蓋骨骨折、右半身打撲、意識不明に陥っていました。事故の2日後、加害者が見舞いに訪れたというところからお読みします。


 加害者本人が、お母さんに土下座して謝られました。その時にお母さんは、「その心でどうぞ助かるように祈って下さい」と言われたのです。まわりにいた人たちが、「なぜもっと怒らないのか、なぜもっと責めないのか」などと言われたそうです。それらを聞きながらお母さんは、「あー信心していて良かった。どうしても責める心が起こらなかった。責めたところで、自分も助からないし、子供も助からないし、相手も助からない。意識不明ではあるけれど、子供はまだ死んだわけではないのだから、それよりも助かる方へ気持ちをもっていきたい。その様な気持ちになるのも信心のおかげだ」と思われたそうです。加害者の方はそれに甘えてか、あまり誠意がみられませんでした。しかしお母さんは、最後まで相手を責めることはありませんでした。幸いにして二週間ぐらいで段々と意識が戻ってきました。九十九パーセントだめだろうと言われていましたが、助かっていく方へ向かっていきました。脳の手術や足の手術など、いろいろと大変な状態の中で、そういう痛々しい姿を見ながらでも誰も責めず、また、自分は信心しているのにどうしてこういう事になったのだろうかと思うこともありませんでした。
 いつも教会に来て話を聞いていたお母さんは、『こういう事が起こらないように願い、またこういうことになった時にどう生きてゆくか、というところに信心の勘所がある』、ということをよく理解していました。厳しい中を、「今日一日、どう生きてゆくか」が信心のしどころなのです。このお母さんが、誰も責めないで、自分は信心していてよかった、と言えるのは、こういう大きな難儀の中で、自分の中に神様を頂き、頂いたその神様に対し、自分はどう生かされていくかを、一心に求めていったからだと思います。お母さんは、「私は加害者の立場をそれほど深く考えておりません。それよりも、子供が助かって欲しいということで精一杯でした」と言われました。回復してきた子供自身もまた、加害者を責めませんでした。ただその現実の問題について、心は神様に向かっていました。大変な中にあって、ものが言えるようになった、手紙が書けるようになったと喜んで、治療に専念しました。誰が悪いというのではない、仕方がない、なったものはなった、というような事を言っていました。そう思えるのが有難いと、毎日神様にお礼を言い、金光様にお参りしていてよかったと、言われました。
 さらに、同じように交通事故で入院し、意識の回復しない子供のことを、「先生、○○ちゃんがまだ意識が戻らないから早くよくなるようお願いして」と、自分も重体の中で、人の事を願うようになりました。「人を責めない」生き方をすすめてこられ、大きな働きへと発展させていかれました。その生き方は、家庭を助け、お医者さんを助け、看護婦さんを助け、病人を助け、もちろん私を助け、まわりを助ける働きへと展開していったのです。
※表記は原典に基づいています。

いかがでしたか。
 大切な娘さんの命が危ういという中にあってもあたふたせず、今の思いを一つひとつ神様に向けながら、難儀の中をしのいでいかれたこのお母さん。その肝の座わったご信心に心を打たれました。「仕方ない。なったものはなった」として、娘が助かることをお願いしながら目の前のことに取り組んでいく「誰も責めない生き方」。降りかかってきた出来事を受け入れられず誰かのせいにして、いつまでもモヤモヤしがちな私を救ってくれたお話です。
 誰かの何かを責めるのはやめて、「自分は、こんなふうに生かされて生きたい」という思いを軸にして、神様が用意してくださる展開を楽しみにして生きていきたいものですね。


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