●私からのメッセージ
「じいちゃんの従軍手帳」

兵庫県
金光教曽根教会
島谷一久 先生
今日は私のじいちゃんの話を聞いてください。
皆さんの中には、今ワクワクしてお過ごしの方もいらっしゃると思います。また「今それなりに生活できているが、果たして自分の方向がこれで良いのかな」と、ちょっぴり不安な方もいるかもしれません。もしかすると「自分がどこに向かって進んでいったら良いか分からない」と迷子状態の方も。
もしもあなたが自分と人とを比べているとしたら、ずっと迷子のままかもしれません。比べるのではなく、日々、過去を振り返り自分を見つめ、方向を定めては進んでいく。そんな生き方があるのです。
親族で集まった食事会の時のことでした。
叔父が「実はこないだ仏壇を掃除したんだけどな。仏壇の中からあるモノが出てきたんや」と言いました。
銀行の通帳? ヘソクリ? もしかして隠し財産?
ハタと皆は言葉は止め息をのみ、次の言葉を待ちました。
「出てきたのは、日記手帳だったんだ」
叔父が仏壇から発見したのは、祖父が戦争へ行っていた時の古びた従軍手帳。
「これでじいさんが言っていた意味がやっと分かった。じいさん朝晩必ず仏壇の前に座ってたろう? お線香つけて、チーンて鳴らして、独特の節回しのお経あげて。真面目にやっとったなあ。昔な、それを俺とか他の家族が冷やかすように『じいちゃん熱心やなあ』て言ったこと時々あったんや。そしたら、じいさんがな、『ワシは仏さんを拝んでんやないんや、自分自身を拝んどんねん』っていつも言うてたんや。それが手帳を仏壇の中から見つけて読んだんやけどな。じいさんのあの言葉の意味がやっと分かったわ」
太平洋戦争で兵隊として中国に行った若かりし祖父は、ある時、戦地で盲腸に。現地の病院での手術はうまくいかず、負傷者として帰国の途に就くこととなりました。従軍手帳には当時の気持ちがしたためてありました。
治療のため日本へ送り帰され、家に戻り治療に専念し回復。その後祖母とお見合い、養子として婿入り。
しばらくして2度目の召集令状が届くも、当時の混沌とした社会情勢のせいか、また丁度養子入りしたばかりで所在地が分からなくなっていたのか、再度の徴兵を免れ、そのまま終戦。
そうです。祖父の「自分自身を拝んでいる」とは「あの時再び徴兵されていたら死んでいたかもしれない、今の自分の命は当たり前じゃない。今、衣食住が出来ていることは当たり前じゃない」と。
そして、亡くなった戦友たちを思い「自分だけが生き残った。だからこそ、彼らに恥ずかしくないように生きていきます。彼らの分まで生きていきます。忘れません」。これを毎朝毎晩、自分に言い聞かせ、真っ当に生きてきている自分なのだという意味だったのです。
そう慕わしげに語る叔父の言葉に、私は優しかった祖父を思い出し、ぐっと胸が詰まりました。
祖父がまだ元気な頃、家族の一人が不幸のどん底状態となり、さらに追い打ちをかけるように、いわれもない訴訟が起こされたことがありました。
この時、祖父は手を拡げるようにして家族の前に立ちはだかり、相手から家族を守り通し、裁判を無事終えてからも、時間をかけて家族と共にそのどん底状態を通り抜けていきました。
「今家族と共にあるのは当たり前じゃない」という思いがそこかしこに。
夕食時、晩酌で酔いが回ると必ず戦争の話。ポロポロ涙をこぼしました。「おじいちゃんまた泣いてる!」。子どもだった私はそんな祖父の姿を面白がってたのを覚えています。あの涙の中には、自分だけ生き残った自責の念もあったのではなかったか。
祖父の葬儀の際、祖父の友人が声を上げて泣く姿や、思い出話を語る姿に、祖父が周りの人をも大切にしていたことがよく分かりました。
病気で悩んだ人が元気になる。いのちが助かる。どうなるか心配に思った人が、思いがけない解決を頂いて安心する。私たちはそれを「神様のおかげを頂いた」と心底から喜び、「このご恩は生涯忘れません」と本気で思います。
でも忘れます。忘れまいと必死に自分に鞭打つこともありますが、それは息切れがするばかりか、周囲の人にも迷惑をかけてしまいがち。ではどうすればいいのでしょうか?
今日一日だけ忘れない。過去自分のうれしかったこと、つらかったことを思い、それの何が大切か、だからこそどう生きていきたいか自問自答し、生きる方向を定めるのです。
今日一日、これを心にかけて生活することはできる。
そして、次の日目覚めたら、また今日一日。忘れないように心がける。日々がさら、毎日が新しい。これを重ねていくこと。これが「自分を拝む」ということ。
そうしながら、いろんな事を通っていくうちに、気がつけば、まさかこんな自分になれるなんてと、心震える感動が続いていく、神様に感謝の気持ちが湧き続いていく。その姿を金光教教祖は「我ながら喜んで、わが心をまつれ」と仰っています。
私は今、金光教の教師となり、祖父と同じように、今生きていることの不思議さや尊さを、朝晩手を合わせては、今ここを確認し味わい、今日を生きます。自分を拝むということは、心の内なる神様の声を聴くことなのかもしれないと私は思うのです。