神様がくださった木


●先生のおはなし
「神様がくださった木」

金光教大津おおつ教会
高阪有人こうさかありと 先生


 先日、1歳半になる息子と留守番をしていました。歩くことにも慣れてきた息子は、好奇心いっぱいであっちへうろうろ、こっちへうろうろ。いろんなものをひっくり返しては喜んでいるいたずら盛り。そんな彼の今一番のお気に入りは、木馬に乗ること。それも、ぐんぐん力いっぱいこぐのが楽しい様子。親の私とすれば、危なっかしくてひやひやです。
 その時も、木馬から落ちないよう見守っていたのですが、彼は揺れる木馬の上にすっくと立ち上がり、両手を広げたかと思えば、私を目掛けて大ジャンプ。突然のことに、私は大慌てです。幸い受け止めることができ、抱きかかえた息子に目をやると、いたずらな笑顔です。そんな息子の無鉄砲なやんちゃさをほほ笑ましく思いながら、同時に、「必ず受け止めてもらえる」という幼い子どもの親への信頼を感じた出来事でした。
 その時、神様も私たちを、時にひやひや、時にほほ笑ましく見守り、いざという時には私たちのことをしっかり思い、受け止め、守ってくださっているのだろうなということが思い浮かびました。
 今の話は、神様が私たちへ向ける温かなまなざしでありますが、私たちは神様へ向ける心、つまり願う心を持っているでしょうか。
 では、ここからは、私の奉仕する教会にお参りされているある男性のお話を紹介します。この方は、山間部にお住まいで、山仕事と、自然と調和した生活のための技術の研究をされています。例えば、伝統的な炭焼きをされたり、山水が流れる水路を利用した家庭用水力発電の開発に携わったりと、いつも楽しそうに興味深い話をしてくれます。ですが、その時は様子が違っていました。青ざめた深刻な表情で話し出されました。
 その方は、ある大学が中心となって庭園を造るというプロジェクトに誘われ、茶室を担当することになったそうです。そこで、以前山で見付けた、床の間の装飾となる柱、床柱にうってつけの栗の木を提供されました。すると、皆とても喜んでくださり、茶室の目玉になるとまで言ってもらえたので、一層張り切っておられました。ところが、設計のサイズに切る時に切りすぎてしまわれたのです。「これではもう使えない。皆の期待を裏切ってしまう。金銭的な責任も負わなければならないかもしれない」ということでした。
 その方は、「全く私の不注意で木を台無しにして、都合良く代わりを見付けられますようになんて、自分勝手なお願いですよね」と半ば諦めたようなお願いをされて帰られました。
 その後も何度となく山へ入られましたが、代わりは見付かりません。何といっても、とっておきの栗の木だったのですから。神様にお願いはされましたが、期待もしておられなかったことでしょう。
 しかし、山道を歩く中で、「自分では柱にする木1本すら自由にできない。ただ見付けただけなのに、自分のもののように思っていた。また、茶室を造る仲間に喜んでもらったのは良かったけど、全てを自分の手柄と勘違いしていた。この木を立派に育てたのは、山であり、天地自然の働きであり、神様から頂いた栗の木のはずなのに」と心に浮かんできたそうです。
 すると、追い詰められた心がほどけるように、自分一人でこの茶室を建てるように思っていたこと。自分一人の手柄にしようとしていたこと。翻って、このプロジェクトに関わる様々な人と一緒に仕事しているじゃないか。正直に仲間に打ち明けてどのようにしていくかをまず相談しなければならない、という思いが湧いてきました。いざ仲間に相談してみると、やはり「大変だ」ということにはなったそうですが、設計の調整や木材加工での工夫といった知恵を皆に出してもらって、何とか完成となったことを、後日お参りをされた時に話してくださいました。
 そして、「あの時、神様から頂いた栗の木なんだと心に浮かばず、仲間に打ち明けなかったらと思うとぞっとします。あんな勝手なお願いでも、神様は気付きを下さり導いてくださった」とも仰いました。
 この方の「栗の木の代わりになる新しい材が見付かりますように」という願いはかなっていませんが、その過程で多くのことに気付かされ、そのどれもがとても大切なことだったと振り返っておられます。このことがまさに神様の導きと思わされるのです。
 駄目にしてしまった木の代わりが見付かるのではなく、大切なことだったと振り返られる多くの気付きをもって、願ってはおられませんでしたが、本来目指さなければならないはずの茶室が完成するという、より大きな目的が無事達成されました。これこそが、神様と歩んだ茶室のプロジェクトだった証のように、私には思えるのです。
 本当に切羽詰まった時には悪いことばかり考え、自分で何とかしなければと一生懸命になるあまり、神様を頼り、神様に願う心を持つことはなかなか難しいものですよね。ですが、そんな時こそ、時にひやひや、時にほほ笑ましく見守ってくださっている神様のことを思い出してほしいのです。たとえ苦しい時の神頼みでも、たとえ良い結果が期待できない願いでも、ちょうど幼い子どもが親の胸に飛び込むように、とにかく願ってみれば、きっとその「願う心」に神様は、様々な気付きをもって、本来願うべきところへ導いてくださることでしょう。

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