5本の指


●信心ライブ
「5本の指」

金光教放送センター


(ナレ)おはようございます。
 今日は岡山県浅口市にある金光学園中学高等学校の校長、金光道晴こんこうみちはるさんが、平成31年2月22日、金光教本部でお話しされたものをお聞きいただきます。

(音源)私たちは人と自分との違いを受け入れられなかったり、認めることができなかったりすることがしばしばございます。それ以上に、自分との考え方の違いを非難したり、攻撃したりするようなこともあります。
 例えば、いじめの問題がそうであります。いじめのきっかけになることに、力が弱い、動作が鈍い、性格や意見が合わないなどということがあります。私は生徒に次のように問い掛けます。速く走れる人とそうでない人はどちらが尊いか。勉強ができる人とそうでない人はどちらが尊いか。音楽ができる人と体育ができる人、背の高い人と低い人、太っている人と痩せている人、肌の色が黒い人と白い人、どっちが尊いですか。それらの違いは人間の尊厳には全く関係のないことで、その人の特徴であります。特徴や違いによっていじめるなどということは絶対にあってはならない、ということを話すようにいたしております。
 ある方が教祖様に、「子どもの数が多く、それぞれ性格が違うので困っています」とお願いをしたら、教祖様は、「もし5本の指が同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので物がつかめる。それぞれ性格が違うのでお役に立てるのである」と教えられたというお話がございます。違っているからこそ役に立てると教えられているのです。
 ひと月ほど前ですが、本校の「学校保健委員会」という会で、LGBTについて研修会を持ちました。その講師としてお話しくださったのは、金光教LGBT会の会長である金光教
加里屋かりや教会の井上真之いのうえまさゆき先生であります。Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル。Tはトランスジェンダー。頭文字を取ってLGBT。性的マイノリティー、性的少数者と言われているのでありますけれども、日本人でいいますと人口の5%から8%いるんだそうです。つまり、学校でいうならば、例えば30人のクラスでありますと、大体平均すると2人ぐらいがそのクラスにいるということになります。
 その講演では、ご自身の体験を元に、大変な悩みや苦しみを抱えながら、誰にも話すことができず苦しんだことなどもお話しくださいましたが、その中で私が最も印象に残った言葉がありました。それは、「性別というと、男と女の2通りと考えられてきたけれども、性は二分できるようなものではなく、多様なもので、二分するのに当てはまらない人もいるということを知ってもらいたい」という言葉であります。
 しかし現実には、その人たちは自分で表明することができない。従って、いじめられたり、正常ではないと差別を受けたり、周りの人に理解されない中で苦しんでおられるというのです。そして今なお一番理解が及ばないのが、親であったり、大人であったりするのです。
 講演の後に座談会がありましたけれども、その座談会の中で、中学3年生の女子生徒が、「自分の身近にもLGBTの人がいますけれども、今日の講演を聞いてそのことがよく理解できた。その人のことを理解してあげたいと思います」と言ったのがとても印象的でありました。
 保護者の代表の方は、「頭では理解できたけれども、もし自分の子どもがそうであったら、受け入れるということは難しい」というふうに、その場で言われます。
 この道は、160年前に始まったのでありますけれども。既にあの時代に、違いを認め合うことが大切であるということを、本当に分かりやすくお教えくださっております。例えば、こういうみ教えがございます。
「どの宗教を信じていてもくさすことはない。みな、天地金乃神のいとし子である。あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり、左官になる子もあり、商売好きな子もあるというようなものである。宗教が分かれているといっても、人はみな神の子で、それぞれ分かれているのである。そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだと言って、みな好き好きで成り立っているのであるから、くさすことはない」というふうに言われております。
 最初に申しました、教祖様の5本の指のみ教えもそうであります。家族の問題はもちろんのこと、いじめの問題、性的マイノリティーの問題、民族や宗教や文化の違いから起こる問題、そして世界平和の問題など、全てはお互いの違いを認め合い、理解し合うことを大切にしていかなければ、決して解決できないというふうに思うのであります。


(ナレ)教育現場での経験を踏まえながら、人間がお互いに違いを認め合うことの大切さについてお話しになっています。そして、どうすればその違いを認める広やかな心になれるのか、その手掛かりとして、「みな神の愛し子である」という教えを紹介されているわけです。確かに、わが子がお互いにけなし合っていたら、親としてはいたたまれないですよね。
 紹介された教えの中に、「好き好き」という言葉がありました。宗教の対立さえも、「好き好き」というひと言で神様の愛情の中に包み込んでしまうのですから、金光教祖が信仰した神様は、何て大きいんだろうと驚かされます。
 神様の親心に思いを寄せながら、人と人との温かい関わり合いを広げていきたいものです。

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