●ピックアップ(テーマ:「先の不安」)
「天狗の弟子入り」
金光教静岡教会
岩﨑弥生 先生
2010年1月5日、朝5時40分。外の空気はキーンと冷え、空を見上げるとまだ星が光っています。教会では、毎日朝のお祈りがあり、神様に新しいいのちを頂いたお礼と今日一日のお願いに、信者さんがお参りしています。
その日の朝、単身赴任で静岡に来ている秋山さんの姿が久しぶりにありました。秋山さんは、新年のすがすがしさとは裏腹に、暗く硬い顔をしていました。
気になって秋山さんに話を聞くと、現在担当しているリース部門の業績が悪く、会社としてはリース事業からの撤退も考えており、1月中にその結論が出るということでした。もし撤退となると当然自分の居場所はなくなり、リストラということになります。そこで秋山さんは居ても立ってもいられず、仕事始めから朝参りをして神様に道を付けていただこうと思い立ったそうです。
秋山さんは、これからの仕事のこと、東京に残してきた妻や小学校と幼稚園に通う娘たちの将来のことを考えると、不安が募るばかりでした。入社して16年間、リースの仕事一筋で頑張ってきた秋山さんは、突き付けられた現実の厳しさに、自分はどうしたらいいのか、何を願っていいのかが分からなくなっていました。
私は、「そうでしたか、秋山さん。それは不安になりますよね。まずは、自分がどうすべきか、願いがはっきりするよう神様にお願いさせていただきましょう。そして、今受け持っている仕事を一生懸命やることに努めましょう」と秋山さんに話し、一緒にお願いさせていただきました。
そうして迎えた1月の末、いよいよ会社の方針が決まりました。残念なことに、リース部門の撤退が決まり、営業所は3月末で閉鎖されることになりました。毎日朝参りをし、今日まで一生懸命取り組んできた秋山さんの思いを考えるとつらくなりました。がっかりしている秋山さんを見ていて、ふと私は「天狗の弟子入り」の話を思い出し、秋山さんに話しました。
ある人が天狗の弟子にしてほしいと頼んだところ、天狗が「それなら私の言うとおりにするか」と聞いてきました。その人が「はい」と答えると、天狗はその人を抱えてサッと飛び上がり、崖の上の高い松の木に連れていきました。
「では今、松の木につかまっているが、その右手を離せ」と天狗が言いました。そのとおりにすると、今度は「左手を離せ」と言うので、「私はこの手を離したら、谷底へ落ちてしまいます」とその人が答えたところ、「それでは私の弟子にはできぬ」と天狗が悲しそうに言ったというお話です。
その人は手を離したら落ちてしまうと自分で決めてかかっていました。神様への願いも同じです。神様にお願いしながら、自分の考えや思惑にとらわれて神様を信じ切れず手を離せないことがあります。いったいその手で握っているものは何でしょう? お金? 名声? 自分が大事だと思ってきた生き方? 価値観? 手をぎゅっと握っていたのでは何もつかめません。握ったその手を離し、身を委ねた時、神様が受け止めてくださるんです。神様にお願いしながら、自分で「ああなったらこうなる」と初めから決めていませんか? 右手と左手交互に離しているのなら、ただ苦しいばかりです。両手を離して、神様にお任せしてみましょう、と話をしました。
先程まで思い詰めた顔をしていた秋山さんでしたが、何か思い当たることがあったようで深くうなずいています。
そして秋山さんが、「実は私、未払金を催促することを、いつもは電話で済ませていましたが、できることを一生懸命と言われ、取引先に回収に行きました。すると電話で納金のお願いをした時の素っ気ない態度と打って変わって、担当者が厳しい現状を話してくれ、『半年後にはめどを付けたいと思っているので、今日のところは少ないが…』と、現金を渡してくれたんです。それまでは回収のことばかり考えていた自分でしたが、このことで取引先の経営がうまくいってこそ、自分の会社の利益につながることを感じました。それから、営業所を一人で任されていたので、初めから集金に行くのは無理と決め付けていたのですが、神様にお願いして進めていく中で、無理ではなかった。そして、思わぬ展開になったということがありました」と話してくれました。
そして、その後も秋山さんは自分が何を握っていたのかじっくり考えたそうです。自分は今まで真面目に仕事に打ち込んできたつもりだし、それなりに評価も得ていたと思う。ただ、小さな自分の世界で安心してしまい、それが崩れかかった時、どうしたらよいのか慌てふためいてしまった。自分の小さな価値観を離せないでいたのかもしれない。そう素直に思えたそうです。
「この先会社を辞めてどうなっていくか分かりませんが、神様を信じてこの状況を受け入れ、新しい世界に飛び込んでいきたいです」と力強く話してくれました。「奥さんにはそのことを話しましたか?」と聞くと、「こんなに厳しい状況の中でも、最近のあなたは変わった。それを見ていたら私も一緒に頑張ろうと思う」と言ってくれたそうです。
3月31日、全ての仕事を終え、秋山さんは東京へ帰っていきました。
くしくもその日は秋山さんの37歳の誕生日でした。深い感慨を持って東京へ帰る秋山さんには何の迷いもなく、神様の胸に飛び込んで自分の新しい生き方の第一歩を踏み出す晴れ晴れとした顔をしていました。「人生をリセットする良い機会を頂きました」とお礼を言っての出発でした。
そして、3カ月後、秋山さんから電話がありました。自動車の部品販売の会社に就職が決まったとのことでした。うれしいうれしい電話でした。