生命(いのち)ってすばらしい


●先生のおはなし
生命いのちってすばらしい」

金光教小松こまつ教会
辻井学つじいまなぶ 先生


 現在、私たち夫婦の間には中学3年生になる娘と、中学1年生になる息子の2人の子どもがおります。これは、その娘の出産時の出来事です。
 出産予定日を直前に控えた、とある昼下がりのことです。妻が突然「破水した! すぐに病院に連れて行って」と、そばにいた私に訴えてきました。私も突然のことに戸惑いながらも、すぐに車を用意し、妻を乗せ、かかりつけの病院に急ぎました。
 病院に着いたものの、そこからがまた難産で、結局、娘が産声を上げたのは、次の日の朝、夜も白みかけてきたころのことでした。私たちにとって、待望の第1子がこの世に生を受けたのです。
 ところが間もなくして、主治医の先生から私は呼び出されました。元気そうに見えた娘でしたが、検査の結果、心臓に異常が発見されたのです。心拍数が正常値の2倍もあり、このままでは24時間はもたない、との診断でした。「心拍数を抑える効果の期待される薬を投与します。一刻も早く効き目が現れて、心臓が正常な状態に戻ってくれることを願います」とのことでした。
 無事に生まれてきてくれたことを喜びあったのもつかの間、そのいのちがあとわずかで消えてしまうかもしれないとの話に、私たち夫婦は、がく然とさせられました。とはいえ、私たちにはその時、この子のためにしてやれることなど何もありません。「とにかく、今は神様にお願いさしていただくしかない」。そう2人で話をし、妻は病院のベッドの上で祈り、私は急いで自分が奉仕させてもらっている金光教の教会に帰り、その神前で、娘の回復を神様に祈り続けました。
 その日の夜の9時半頃です。教会の電話が鳴り響きました。
 電話の主は、病院の看護師さんでした。「お父さん、喜んで下さい。娘さんの心拍数が正常値に戻りましたよ!」。こちらがどれほどか心配しているであろうと、看護師さんがすぐに連絡をくれたのでした。
 私はホッとすると同時に、急いで神前に戻り、神様に「ありがとうございました。ありがとうございました」と何度も感謝の言葉を口にしていました。
 その日の夜は、おかげで2日ぶりにぐっすりと休ませてもらうことができ、翌日、病院の面会時間に、私は足早に妻と娘の元に行きました。娘は保育器の中で注意深く経過を観察されていましたが、周囲のドタバタをよそに、スヤスヤと心地良さそうに眠っていました。その穏やかな寝顔を見て、ようやくお預けになっていた我が子誕生の喜びを、改めて妻と2人で噛み締めさせてもらったようなことでした。
 娘の心臓は、その後、何度も検査を受けましたが、これ以降はまったく異常もなく、今日に至るまで、確かな鼓動を打ち続けてくれています。
 病院の検診の間隔も次第次第に長くなり、いつしかこの件で病院を訪れる必要もなくなりました。あまりに元気に日頃飛び回る姿を見ていると、娘の心臓にそんな異常があったことを忘れてしまうほどに、日々は積み重ねられていきました。
 毎年、娘の通う小学校では秋になると、持久走大会が催されます。その直前には保護者に必ず健康診断表が配られ、いくつかの質問項目に答えることになっています。過去の病歴に関する中には心臓の項目もあり、そこに、「生後こういうことがありました」と記入する度に、改めて妻と共に、本当によくぞここまで無事に育ってくれたものだという感慨を新たにさせられるのです。
 我が子たちははっきりいって親に似て、2人とも運動オンチで、こうした持久走大会などでも、いつも順位は下から数えるとトップクラスです。しかし、まずは元気で走ることができたということだけで、とにかく「ありがたい」という思いを抱かずにはいられませんでした。ましてや「完走できたよ!」という報告をうれしそうにしてくれると、それだけでこちらも、例えようもなくうれしい思いになります。
 それと共に、考えさせられることもあります。日頃、娘の心臓は何の支障もなく、常に正しいリズムを奏で続けてくれています。こうした機会がないと、この病気のことを忘れてしまうほどです。結局この病気は何が原因だったのか、今もってよく分かりません。こうしたトラブルに娘が見舞われましたが、誰でもそれぞれの命は、それこそちょっとした歯車の食い違いで、いつどうなるともしれない危うさを秘めているのです。いのちとは、そんな微妙なバランスの中で、それこそ人智を越えた果てしない天地の働きによって保たれているということを、つくづく思い知らされます。
 金光教の教えには「痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである」とあります。
 健康であるということ…、元気な時はつい何事も当たり前のように思いやすいものですが、決してそうではないのです。その当たり前の状態が保たれていくために、どれほど大きな天地の恵みと働きが注がれていることか。改めて、私たちの生命というものの不思議さ、尊さ、そしてそれを生かし続けて下さっている天地の偉大さを実感せずにはいられません。
 こうして気づかせてもらった事柄を、妻も私も、そして子どもたちも、それぞれが少しでも日々の生活の中で見失わないよう心がけ、常に、今、生かされて生きている喜びをもとにした生き方を、しっかりと歩ませてもらいたいと思うのです。

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