恩を知るということ


●先生のおはなし
「恩を知るということ」

金光教本部
金光浩道こんこうひろみち 先生


 先日、職場の後輩とご飯を食べに行く機会がありました。食べ終わって支払いの時に、一応僕は先輩なので、まとめて払いました。
 次の日にその後輩が、昨日の分と言って、支払いの半分のお金を僕に渡してくれようとしましたが、その時に僕は、ふとある先輩のことを思い出しながら、「いいよ。今までいろんな先輩にたくさんごちそうしてもらってきたから、これからは後輩に返していかなきゃ」と言いました。
 ふとその時に思い出したのは、僕が二十歳くらいの若いころに、あるお店で会うと必ずごちそうしてくれる先輩がいたんです。その先輩が、「今までいろんな先輩にたくさんごちそうしてもらってきたから、今度は後輩に返していく番なんだよ。先輩たちにそう教わってきたから、ここの支払い分は、将来、後輩に返してくれたらいいから」と、よく言われていました。ごちそうしてくれる、してくれないは抜きにして、僕はその先輩が大好きで、また、いろんなことを教わりました。そして、思い返してみると、そういえばあの人にもごちそうになった、あの人にもすごくお世話になった、と次々と思い浮かび、「ああ、若いころは何にも考えずに、あっちにもこっちにも迷惑を掛けていたんじゃないかなぁ…、考えてみたら、周りに甘えていたことが多かったけど、ちゃんとお礼は言ったかなぁ? ご恩返しができているかなぁ? お世話になった先輩方に、少しでも喜んでもらえるような生活ができているだろうか?」と思わせられたのです。
 そんな中、お昼にたまたまテレビを見ていると、ある番組で、「相手にお願いを聞いてもらうマル秘会話術」という企画をやっていて、その中で「報恩性」という言葉が出てきました。人間の心理には、恩を受けたらそれにお返しをしたくなるという「報恩性」という行動原理が働くらしいのです。
 恩に報いるという意味の「報恩性」という言葉は、僕自身、初めて聞く言葉でしたが、ちょうどその時の僕自身の信心のテーマが、「神様のご恩を知り、ご恩に報いる」ということでしたので、その言葉にすごく興味がわきました。
  それと同時に思い出した、友人の面白い体験談があります。
 仕事で出張の多い友人が、ホテルの予約なしで出張先に向かいました。何度も行っている所で、今までも当日にホテルを決めたことは何度かあったらしく、特に心配もせず軽く考えていたら、たまたまその日に有名な大きなお祭りがあり、どこを当たってもホテルは満室でした。困り果てて、最悪の場合は野宿も考えていたらしいのです。ところが、電話帳で探して最後にかけた旅館が、今は事情があって営業はしていないけど、そういう事情ならばと、特別に泊めてくれることになったのです。
 その友人はとても喜び、部屋も備品もきれいに使い、さらには、今まで一度もしたことのない、風呂やトイレの掃除までして部屋を出た、と言うのです。
 これが人間の「報恩性」というものなのかな、と思いました。恩に報いる心は誰にでも備わっているんでしょうね。
 そもそも僕が恩について考えさせられるようになったのは、去年の長男誕生がきっかけでした。お医者さんは、産まれて間もない長男の様子を見て、「食欲もなく、便秘気味で体の調子が非常に悪い」と言われ、集中治療室に入ることになりました。そこで見た長男は、産まれて2日目にもかかわらず、お腹のガスを出しやすくするために鼻から管を通され、しかも栄養補給のために腕には点滴の針が刺さっていました。
 産まれたばかりのわが子の、とても痛々しい姿を見て、妻と共に涙が止まりませんでした。看護師さんは、これが赤ちゃんにとっては最善なんですよ、と言って下さいますが、分かっていても涙が止まりません。
 「何とかしてやりたい」と涙を流しながら、ハッと思い付かされたことがありました。それは、「神様、そして両親は、これほどの慈愛をもって自分に接していて下さったのか!」ということです。
 「子を持って知る親の恩」と言いますが、頭で分かるのと、実際の経験から体の芯にたたきつけられるように分かるのとでは、全く違うものですね。この時ばかりはそう思いました。そして、ありがたい思いでいっぱいになりました。恩というものを、わが子によって分からせてもらったわけですね。おかげでその後は、長男は元気にすくすく育っています。
 この、ありがたい心にならせてもらうというのは、本当にありがたいことなのですが、先日読んだ金光教の本にこういう話がありました。
 「命の無いところを、信心しておかげを頂いて今日がある自分たちだから、いつ命が無くなっても、もう何の不足もない」というような話をしておられた方々に、ある金光教の先生が、「それは違う、あなたたちの話しておることは、非常にありがたいことのように思えるが、それは例えて言うなら、お金に困った人が、ある人に貸してもらって良い方向に向かった。元金も利子も払わず、それでご破算にしてもらえれば、こんなありがたいことはない、と言うのと同じではなかろうか」と言われました。
 つまり、神さまの恩を受けて命を頂いたのに、それに報いることもせずに、この世を去るのでは、あまりにも神様に申し訳ない、と言われるのです。
 これを読んで、僕は、ありがたい気持ちは自己満足で終わってはいけない、さらにその先、ご恩に報いる生活をさせてもらわなければいけないんだと気付かされ、ここから先の生活の上で、生かしていけたらいいなと思っています。

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