神様からのサイン


●先生のおはなし
「神様からのサイン」

金光教水田みずた教会
冨増彰生とみますあきお 先生


 今から数カ月前、コンタクトレンズを失くしてしまったので、新しく作りに眼科へ行きました。
 いつもは簡単な検査があった後、お医者さんから処方せんをもらうのですが、今回は何だか随分検査が長いのです。「どうかしたんですか?」と尋ねると、お医者さんはちょっと間をおいて「緑内障りょくないしょうですね。予想以上に悪いです。視野の上半分がほとんど見えてないようで、放っておくと少しずつ視野が失われていき、失明します。残念ですが、緑内障は現在治す方法はありません。これ以上悪くならないための治療をしながら、ずっと付き合っていくしかないんです」と言われたのです。
 ショックでした。私は現在四十歳。人生まだまだこれから、という年齢です。また私は金光教の教会の教師をしており、教会の青少年育成活動の一環でソフトボールやバスケットボール、ブラスバンドや空手などに力を入れており、これからますます充実させていこう、と思っていた矢先で、どれもこれも視力を失う訳にはいかないものばっかり。いやそれどころか普通の生活を送ることすらできなくなってしまうのではないかと不安に襲われました。
 帰る道すがら、車を走らせながら、「これから、どうなるんだろう…」と私の心は揺れ動いていました。
 私は金光教の教会に生まれ育ちましたので、「人はみんな神様に幸せを願われて命を頂いている。一人ひとりに、掛け替えのない神様の願いがかけられているんだよ」と教えられて育ちました。そして、「うれしいことも、悲しいことも、つらいことも、自分の上に起きてくることは全部、神様の助かってくれ、幸せになってくれ、という願いの中で起きてくるもの。無駄なことは一つもないんだから、その時、その事柄があなたに必要なんだから、そのことを通して成長するよう、神様にお願いしながらしっかり受け止めていくんだよ」と教えられてきました。
 だからでしょうか、沈んだ気持ちの中で、ふと「待てよ。これは神様から私への何かのサインじゃないのかな」という思いがわいてきたのです。
 私は小さい頃から近眼がひどく、目に映る景色はいつもぼんやりしたものでした。ですから、高校生になり、初めてコンタクトレンズを入れた時は「世界ってこんなに美しかったんだ!」と驚き、ただ眼に映るものを眺めているだけでも新鮮でわくわくし、「こんなに見えるなんて、何て幸せなんだろう」と喜びと感謝の気持ちでいっぱいになったものでした。「見えてる」ことはすごい、大変な、びっくりするような出来事だったんです。それがいつの間にか当たり前になり、私の眼にはあの時と変わらない、同じ景色が映っているのに、何も感じなくなっていました。
 そういえば小さい頃は、毎日がとても新鮮で、いろんなことを喜び、心が生き生きしていたような気がします。学校から帰ると自分が大好きなカレーやハンバーグを母が作っていてくれた時。誕生日に家族みんなで祝福してもらった時。新しい服を着せてもらった時。親や先生に「頑張ったね」と褒められた時・・・。
 あの頃、なんであんなに楽しくて、あんなことがあれほどうれしかったんだろう? だんだん年を重ね、成長してきたはずなのに、私は今、あの時よりもわくわくして生きているだろうか? もともと、感動し、感謝して喜べるみずみずしい心を神様からもらって生まれてきているはずなのに、自分はどれだけそれを勝手に曇らせ、貧しいものにしてきてしまってきたんだろうか・・・。考えていくと、生活の中で目の前のことばかりに気をとられて、幸せに生き生きと生きていくための一番の必須条件、土台となる「自分の心」がグラグラしている自分の姿が見えてきたのです。今回のことは、神様が「おいおい、大事なことを忘れてないかい?」とサインを送って下さったような気がしてならないのです。
 数年前、私が奉仕する教会にお参りする青年がトラックにはねられるという事故が起こりました。何日も意識不明で、意識が戻ってからも何カ月もベッドで寝たきりでした。退院した彼が教会へお参りに来た時、枯れ枝のようにやせ細ってしまった体でヨロヨロと歩いて来て、「先生、“生かされて生きる”っていう意味が分かりましたよ。目が覚めるって、手足が動くってこんなにありがたいことだったんですね」と言って、にっこり笑ったのです。
 私の眼どころの話じゃありません。命があること自体を毎日心から感謝して、喜んで生きている彼の人生はどれほど濃く、喜びと輝きに満ちあふれたものでしょうか。考えてみれば、命があること、日々何事もなく暮らしていること、どれも当たり前のことなんか一つもなく、まさに私の命は生かされている命だったことに気づかされたのでした。
 私は緑内障と診断されたおかげで、いろんなことを考えさせられ、忘れてしまっていた大事なことを思い出すことができました。毎日1回、寝る前に必ず治療薬の目薬を差さなければならないのですが、その時が改めて感謝の心を思い起こす時間です。「今日もよく見えて、生活にも支障なくてありがとうございました」と感謝します。
 そんな毎日の中、見えている景色が、また輝きを取り戻してきたような気がします。この緑内障は、私が生かされている命に、感謝する心をいつも忘れずに幸せに生きるために、神様が下さった「お守り」のようなものだと思うのです。
 これから生きていく中で、もっともっといろんなことが起きてくるでしょう。何の問題もなく一生を過ごす人はいないと思います。でも、どんなつらいことも悲しいことも、意味のないことは一つもなく、起きてくることすべてが、もっともっと幸せに生きていける自分になるために神様から与えられたものだと思うんです。
 きょうも目薬を差しながら一日を振り返り、喜びと感謝の心を忘れないように生きていきたいと思うのです。

タイトルとURLをコピーしました