●共に生きる
「語れなかった戦争」
金光教放送センター
(ナレ)名古屋市にお住まいの石黒美代子さんは、昭和7年生まれの78歳。最近になって、ようやく戦争のことを語れるようになってきたと言います。当時、13歳の少女には、あまりにもつらい出来事ばかりだったからです。
(石黒)昭和19年の6月に父に招集礼状が来ました。面会が許されて父の元へ会いに参りました。本当は私の父はシュークリームが大好きだったんですけれども、手に入りませんので、母と妹と3人でおはぎを作って重箱に詰めて会いに行きました。面会が終わって帰ろうとしましたら、父が「今度は南方へ行くらしい。もしものことがあったら、お母さんを助けて教会を守るように」と私に申しました。
(ナレ)石黒さんのお父さんは金光教の教師で、これが3度目の招集でした。
翌年、戦争は激しさを増し、名古屋は度々、空襲を受けました。そして、ある日のことです。
(石黒)朝8時ごろ、空襲警報が鳴りまして、鳴ったと思って防空壕に入るひまもなくB29の衝撃で、焼夷弾が雨の降るごとく投下されまして、もう、名古屋城と共に2万戸の家々が焼けまして、270人の方が尊い命を亡くされまして、私の目の前で教会が焼けて、後から聞きましたけれども焼夷弾が26発も落ちていたって言われて、それじゃあもう命があったのが不思議なほど、その教会が焼けてるのを目の前に見ながら、逃げることもしませず、「金光様、金光様」と母とお唱えしながら、布団をかぶって震えておりました。
(ナレ) 終戦の前日にも、こんな体験をしました。
(石黒)その日は何度も何度も警報が鳴って、工場から近くの堤防へ逃げるわけです。避難するわけなんですが、急にその時、艦載機が低空飛行してまして、逃げている私たちを見上げて、機関銃の掃射、こんな恐ろしいことは本当にありません。もう地べたにはいつくばって泣いておりまして、このまま死ぬんじゃないかなと。ですから、戦争の話をしないというのは、このことが一番大きな原因で、この思い出を語ったり思い出しただけで、もう、胸が高鳴って夜が寝られない、そういうことで、一番つらい、恐ろしい経験でした。
(ナレ)戦争が終わり、6畳一間の借家を借りて、教会としました。わずかに残った身の周りの物を売りながらの暮らしの中、石黒さんは、兵士が引き上げてくる港に何度も足を運びました。しかし、お父さんは帰ってきませんでした。そして2年後、1通の封書が届きました。
(石黒)学校から帰って母が見せてくれたんですけれども、その書いてあった言葉が、イシグロトシハル殿には、昭和20年6月13日、フィリピンレイハンにて頭部貫通銃創にて戦死せり、と書かれてあったんです。はあ、敵の弾に当たってお父さんは死んだんだね、母は涙一つこぼしませんでした。でも、人知れず、夜ご神前にひれ伏して、涙しておりました。
(ナレ)悲しみを抱えながらも、石黒さんはお母さんと共に教会の復興に取り組み、戦後の日々を送ります。そして数十年の時が過ぎ、平成3年、石黒さん58歳の時、慰霊のため、戦没者の遺骨収集に参加します。お父さんが亡くなったのはフィリピンですが、身近な方々が参加していた沖縄での遺骨収集団に加わりました。
(石黒)奉仕団のあの方々とごいっしょに山の中を歩いて洞窟の中を土の中を掘って、掘らせてもらったら本当にご遺骨が出てきたんです。私はそれをかき抱いて涙しました。あっお父さん。
(ナレ)この時、石黒さんはお父さんが亡くなったフィリピンの地を訪ねたいと強く願ったそうです。その願いは翌年、実現しました。
(石黒)その時、現地の方の説明を聞きました。もうこの戦争は昭和20年5月には終わっていた、そうおっしゃいました。戦うにも弾もなく、内地からの食料の援助もなく、本当に食べる物を求めて山へ山へ奥地へ奥地へと逃げて、ゲリラの襲撃にのまれて、見渡す山は丸坊主になったっておっしゃった。木とかそういう口にできる物は何でも食べて飢えをしのいだ、でも最後は飢えと病の行軍でしたと言われました。その話を聞いて、ああ、お父さんはフィリピンの土になったんだ、そう思わせていただきました。とても悲しい熱いフィリピンの旅でしたけれども、行かせていただいて良かったなあと思います。
(ナレ)戦争のつらさ、空しさを感じて生きてきた石黒さんが、毎朝続けていることがあります。
(石黒)父の写真に白いご飯とおいしいお茶を入れてありがとうと手を合わせ、それから表へ出まして、道を行く人に笑顔で朝のあいさつを交わして、そして車が通行量が激しい所ですので安全を願い、それからこの道は世界に続く道とそう信じて、世界の平和を願い祈り、道路を毎朝掃かさせていただいております。
(ナレ)一人ひとりの平和を祈る心こそが、戦争を生まないのだと、石黒さんは、きょうも心新たに、世界につながる道を掃き清めています。