●先生のおはなし
「吉野山踏み迷うても花の中」
福岡県
金光教合楽教会
渕上忠保 先生
皆さんおはようございます。
私は中学生の時、父の会社が倒産し、生活が一変しました。
それ以来「幸せとは何か」と求め続け、後に金光教と出合い、金光教の教師となりました。
私は、どういう出来事も、すべて、人間を幸せへと導こうとされる、神様のお働きの中にあることだと教えていただいています。ですから、「そこに込められた神様のお心は何だろう。このことを通して、神様は私に何を伝えようとしておられるのだろう」とアンテナを立てて、成り行きを見ていきます。
これは私が36歳の時のことです。
ブラジルでの金光教の祭典に旅立つ3日前、実家の母から、入院中の父が危篤だという電話が入りました。私は神様に、父のことをお願いしながら「このまま死ぬんだろうか」と、騒ぐ気持ちを鎮める一方で、さあブラジルに行くべきか留まるべきか、葛藤しながら、「神様、教えて下さい」と祈りました。そしたら、その夜、夢を見たんです。
私が師と仰ぐ教会の先生から「渕上、ブラジルに行くぞ」と声をかけられ「ハイ」っと返事をした、その自分の声で目が覚めたんです。それで「父のことは、神様にお任せしてブラジルに行かせていただこう」という思いになりました。
その日の夜、私は父の病院に駆けつけました。
父は意識不明の状態でした。私は父の手を取り「忠保です。今帰ってきたよ」と声を掛けると、もう間髪を入れずでした。なんと父の意識が戻ったんです。そして開口一番「ブラジルに行くのは25日からやったかね」と言ったんです。私は呆気に取られたまま「いいや、明日、出発するよ」と応えていました。すると今度は「気を付けて行ってこんばたい」と言うと、すっと、また意識がなくなりました。
もう雷に打たれたような感じで「自分が生死をさまよっているのに、子どものことを気に掛けている。これが親というものか」と、もう胸がいっぱいになりました。私は、これが最後になるかもしれないと思い、父の体をさすりながら、ハッとしたんです。さっきの父の言葉は、そのまま神様の言葉なんだと思えたんです。その時はっきり、ブラジルに行く決心がつきました。
母や兄弟は引き留めましたが、私の気持ちを分かって、送り出してくれました。
道中はずっと、父のことを祈りながらの旅でしたが、飛行機がブラジル上空に差し掛かった時、私の耳元で、日本にいる6歳になる娘の「お父さーん」と叫ぶ声が聞こえた気がしたんです。その瞬間、虫の知らせというか、今、父が亡くなったなと感じました。空港に着いて実家に電話を入れると、その時刻に亡くなった、ということでした。
それで、師匠が書いた本を出して、神様に祈りを込め、父のことを念じながら開くと、2つの言葉が目に飛び込んできて、胸が熱くなりました。
一つは、「吉野山踏み迷うても花の中」という言葉でした。
吉野山は桜の名所で、たとえ道に迷っても満開の桜の素晴らしい世界の中だという意味です。ですから神様が、「お前の父は、そういう世界に行くのだから、心配しなくてもよい」と言って下さっている感じがしたのです。そして、もう一つは、「山は雪、麓はあられ、里は雨、いずこも同じ神の懐」という言葉です。それぞれの所で情景は違うけれども、どこも神の懐だ、というわけです。
我が家では父の死で悲しんでいる。私はブラジルの旅の空。そして、教会では、先生が祈って下さっている。そのすべてが、皆等しく神様の懐の中にあり、地球の反対側にいても時間空間を超えて一つにつながっていると感じたんです。
それですぐ、私はこのことを含め、母に手紙を書きました。
「母さん。親父との別れは悲しいでしょう。寂しいでしょう。もっと、生きて欲しかったという思いでしょう。けど、金光教では『神は天地を一目に見ておる』『人間は、神様のおかげの中に生まれ、おかげの中で生活し、おかげの中で死んでいくのである』と教えられています。確かに、親父との別れは悲しいことだけど、そういう神様に抱かれている実感がして、感動で涙が止まりません。母さん、今書いたように、親父は安心に包まれた世界にいますからね。僕は今、親父が、自分の生命をかけて、子どもに、こういう世界を見せてくれたんだと、親父にお礼の気持ちでいっぱいです。親父の死は、僕の財産になります。今から、親父の御霊と一緒に、ブラジルの教会に参拝してきます」と、長い手紙を書きました。
その手紙を、母は亡くなるまで自分のバッグに入れ、大切にしていたそうです。私にとって、親父の死は今も私の中で輝いています。
たとえ、悲しいこと、辛い苦しいことの中にも、必ず、神様の思いが込められています。私も、お話したような神様の働きに触れなければ、ただ辛い悲しいだけで終っていたと思います。ですから「このことに込められた神様のお心は何だろう」と、心に掛けていると「これが神様の声であろうか、これが神様の働きであろうか」ということに気付かされ、見守られていると感じる体験がきっと生まれると思うのです。
どうぞ皆さん、神様と共に幸せを感じる日々を過ごされますよう願っております。