赤線拾い


●先生のおはなし
「赤線拾い」

福岡県
金光教漆生うるしお教会
鳥越正克とりごえまさかつ 先生


 厳しい日本経済を背景に、あのスーパーが安いと聞けば押し合いへし合いして、必要のない物まで買い求める人の群れ。店頭の無料試供品を目にすれば、根こそぎ持ち去るあさましい人の姿。「貧すれば鈍する」のことわざの通り、神様の子・人間としての品格はどこへやら。かく嘆く私にも苦い経験があります。
 今から50年以上も前、小学3年生の夏休みの深夜。「火事だぞ! みんな起きろ」。父の大きな声に弾かれるように起きた私は、隣の部屋に連れて行かれました。その部屋は金光教の神様をお祭りしている部屋で、父は神様に一礼すると私を担ぎ、外の通りに放るようにして置きました。
 そこで見たものは、我が家の向かいにある、筑豊の炭坑街でも1、2位を競う大きな映画館が炎に包まれている場面でした。まるで紅蓮の竜が漆黒の天に昇り、弾ける火花は赤い水しぶきに見えました。消火に当たる消防団の姿が炎に写し出され、影絵のようでした。
 その光景をぼんやりと眺めていた私は「危ないぞ、どかんか!」と消防団のおじさんにしかられ、ようやく我に返りました。と同時に激しく雨が降り掛かってきました。それは、火の手の勢いに押された消防団が、消火をあきらめ延焼を防ぐために、我が家の屋根や板塀に放水を始めたものでした。
 「いよいよ家が燃える」と思った私は、急に怖くなりながらも、大きなブリキ製のバケツを持ち出して、消火に当たりました。チョロチョロとしか出ない蛇口をひねり、はやる思いを抑えながらバケツに水をためるのです。ようやく満タンになったものの重くて走れず、それに足の震えも加わって「エイ!」と放水するも、板塀の手前にパシャリとむなしく落ちるのです。やがて映画館は全焼して火は消えました。
 朝早く目をこすりながら焼け跡に行くと、ロープが張られてお巡りさんの現場検証が行われていました。群衆の最前列は、坊主頭の子どもたちが陣取っていました。子どものお目当ては“赤線”拾いです。当時の私たちは、電線に使う銅線のことを赤線と呼び、拾い集めてはくず鉄屋に持って行き、量り売りをするのです。貧しい時代でもあり、小遣いなどもらえない私たちにとっては、アイスキャンデーやレモン水を買う貴重な財源です。ちなみにアイスキャンデーは1本5円でした。
 この時もお巡りさんが引き上げるのを、今か今かと待っていました。やがてその時が来ました。私は、ロープを飛び越えて、地をはいながら野良犬のように赤線を探しました。ガキ大将から足を踏まれ、手を払われながらも必死でした。そんな中で10円玉1枚を拾ったのです。10円玉の焼け焦げた表面は砂でこすり、黄金色に輝くのを見届けてポケットにねじ込みました。もうその時はスキップしながら空に向かって「ヤッホー」と叫びたくなるほどルンルン気分でした。
 この日は陽が沈むまでに、かなりまとまった赤線を拾って家に帰りました。迎えに出た母は、顔中すすだらけの私が握り締めている赤線をチラリと見て「今まで何をしていたの、早くご飯を頂きなさい」と言っただけで、しかられませんでした。
 でも母が父に話したのでしょう。夕食も終わり、後片づけをしていた私の後ろから父が、「お前が拾った赤線は映画館の物ぞ。明日にも元の場所に戻しておきなさい」と言い残し、その場を離れました。父は常日頃から私に「どんな時でも、神様が見ておられるもんなー」と、口癖のように言っていました。それはきっと私に「神様の子・人間として、神様の思いに恥じない生き方をして欲しい」との願いを込めてのことでしょう。
 しかし、当時の私は、父の願いを理解できるはずもなく、心の中で「他の子はみな拾っているのに、どうして僕だけが拾ってはいけないのか。僕だけが損をして馬鹿らしい」と父を恨みました。
 でも、なぜか私は、その日のうちに焼け跡へ行きました。張られたロープの前でしばらく悩みましたが、勇気を出してロープをまたいで、赤線を置いて走って帰りました。でも、ポケットの10円玉は、玄関前にあった植木鉢の下に隠したのです。しかし、父の言葉が心に妙に引っ掛かり、とうとう10円玉を持って家を出ました。そして悔しさもあり、誰からも拾われないように穴を掘って、土に埋めました。
 私の人生を振り返ってみると、これまでも、抱いたわが子のためとはいえど、列を乱し、電車に走り込み座席の取り合いもしました。お年寄りを目の前にしながら、痛む心にふたをして、目を合わせないようにと寝たふりもしました。今でも思い出すと、その時の情景が浮かび心がうずきます。
 聞くところによると、人の多くは、してはならないことをした時には、いつまでも心が痛みうずくと言います。世間ではそのことを、良心が痛むと言うのでしょうが、父からは「それはなぁ、そうした人間の姿を見ておられる神様が、悲しんでおられるのだよ」と聞かされてきました。これからも「このくらいは」と、周りの様子を見て行動し、正しさと欲のはざまに心揺れる危うい私ですが、亡き父の「どんな時でも、神様が見ておられるもんなぁ」の言葉を忘れることなく、神様の子・人間として、神様の思いに恥じない生き方を、孫と一緒に求めていきたいと思います。

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