●信者さんのおはなし
「母のような生き方を」
金光教放送センター
太平洋に面した高知県須崎市で暮らす堅田潤平さんは、昭和14年生まれの72歳です。22歳で中学校の英語の先生となり、のちには、県の教育委員会などで要職を担ってきました。そして、現在も、学校の支援や教育に関わる調査・研究を行う教育行政の一機関である教育研究所の所長として元気に仕事に励んでいます。
堅田さんは、働き者のお母さんの姿を見て育ちました。お母さんは、炊事や洗濯に、また、畑仕事にと、休む間もなく働き、じっとしていることがない人でした。何事も粗末にすることを嫌い、「ありがたい」というのが口癖で、どんなことが起こっても平然と対処できる、物事に動じない人でもありました。
お母さんの、そんな生き方にひかれていた堅田さんは、熱心に金光教を信仰するお母さんの姿を通して、「金光教を信心すれば、母のようになれるのだ」と、漠然と思っていました。そんな青年時代の堅田さんは、時々、教会に参拝してはいましたが、それは、あくまでも堅田さんなりの親孝行でした。自分が教会へお参りすると、お母さんが喜んでくれる。それがまたうれしくて、堅田さんの足は、教会へと向かうのでした。
堅田さんは、25歳の時、悦子さんを妻に迎えます。長女と長男を授かり、やがて愛媛県に近い山あいの村の中学校に家族と共に赴任して、幸せに暮らしていました。
村に赴任して3年を迎えようとする昭和49年の初め、35歳になった堅田さんは、仕事上の大きな転換期を迎えます。
当時は、不便な山あいの学校で3年勤めれば、沿岸部へ異動出来る、というのが一般的でした。出身地の須崎市に戻る日を心待ちにし、家まで新築していた堅田さんは、教会に参拝し、「転任を考えている」と話しました。ところが、教会の先生は、「村にも子どもがいる。御用だからな」と言われるのでした。心から信頼する教会の先生の、「御用だからな」という言葉が、ずしりと堅田さんの心に響きました。
金光教では、〝御用〟という言葉を、〝神様から与えられた役割〟とか、〝神様のお役に立つための大切な仕事〟という意味で使います。
須崎市に戻りたいという堅田さんの思いとは正反対の、思い掛けない先生の言葉でしたが、「母のように、先生の言葉を神様のお言葉として受け止めよう。あの村で、神様の御用として私がなすべきことがあるに違いない」と心を定めました。それは、お母さんのような生き方を求めての大きな一歩でもありました。
それから程なく、「この一歩を神様が喜んで下さっているのかな」と思えるような出来事が待ち受けていました。堅田さんが顧問を務めていたソフトボール部が、春の高知県大会を制して優勝したのです。山あいの村では、スパイクもなく運動靴で練習してきたチームの優勝を祝って提灯行列が行われ、喜びに満ち溢れたのでした。
スポーツだけではありません。高校受験にしても、何学級かある中で、堅田さんが受け持ったクラスだけ、進学を希望した生徒全員が高等学校に合格するのです。堅田さんは、教会へ足を運び、生徒たちの合格をお願いしてはいましたが、特別な進路指導をしたつもりはありませんでした。けれども、それが毎年続くので、周囲から不思議がられるのでした。
「神様から託された子どもたちが、心と体を鍛え、勉学に励んで、たくましく成長していきますように」とお願いし、与えられた役割に心血を注いでいく。そんな堅田さんの生き方や勤勉で温かい人柄が、生徒一人ひとりの、「頑張ろう」という気持ちを引き出し、目覚しい成果として現れることになったのです。
こうした学校での実績が評価され、堅田さんは、教育行政の職務を担当するようになり、昭和63年には、高知県中央部管内の小学校職員の人事を一手に引き受ける、管理主事となりました。責任の重さと忙しさから、体調を崩して職場復帰出来ない人も多い仕事でしたが、〝神様の御用〟と心得て仕事に打ち込みました。
ところが、新年度に向けた人事異動の発表を目前に控えた大切な時に、座っていることすら出来ないほどの激しい腰痛になってしまいます。それでも堅田さんは、「横になれば、ましだから」と、妻の悦子さんが運転する車で出勤、寝そべった状態で仕事を続けました。
ちょうどその頃、家庭では、長女の就職や、高等学校を中退した長男のことなど、心を痛めてきた問題がありました。けれども、腰痛を押して仕事に打ち込む父親の姿が、2人の子どもの心を打ち、やがて2人とも教育の世界で活躍する道が開けていったのです。
「あれは、10日間ほどの腰痛でしたが、他の方と比べ、軽い病でしのがせてもらうことが出来、子どもの進む道まで開けたのですから、ありがたいことでした」と、当時を振り返っては心から幸せに思う堅田さんです。
いま、堅田さんが所長を務める教育研究所は、かつて村を挙げて優勝を祝福してくれた、あの山間部にあります。当時から培われた信頼が、今に繋がっていることは、言うまでもありません。どんなことでも、神様が与えて下さった〝神様の御用〟として打ち込み、仕事に手を抜きさえしなければ、誰もが幸せになれるのだと、堅田さんは確信しています。
仕事を終えたその後に、夫婦で教会へ参拝し、「一日ご苦労様でした」という先生の言葉を、神様からのねぎらいの言葉として聞く堅田さん。「母の信心に近づけただろうか? いや、まだまだだ…」と、自らを見つめては、明日への決意を新たにしています。