●平和
「この月を眺めて」
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金光教漆生教会
鳥越正克 先生
これは今から70年ほど前、戦争という激動の波に飲み込まれた私の父、父の弟、そして祖母にまつわるお話です。
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、3年8カ月にわたり、日本だけでも200万人以上のたくさんの命が奪われました。あの日あの時、私の父や叔父は何を思いながら戦い、そして祖父母は何を祈ったのだろうか。
私の祖父母は明治の末に移民としてアメリカに渡り、日系人相手の金物屋を開きました。そして一旗揚げ、アメリカで生まれた3人の娘を残し、日本へ一時帰国しました。
帰国したその年の大正10年に待望の長男として私の父が生まれました。すでに48歳になっていた祖母は、「私は日本に錦の旗を立てた。この子は私の顔を立ててくれた」と近所の人に生まれたばかりの私の父を自慢しました。
やがてアメリカに帰る時期になりました。しかし、生まれたばかりの私の父にはビザが下りないことが分かり、2人は仕方なく我が子を人手に預けて、悲しみの中、アメリカに帰りました。父が物心つくころ、遠く離れたアメリカでは弟が生まれていることなど、父は知る由もありませんでした。
父の成長期は、満州事変から日中戦争といった戦争時代でした。旧制中学校を卒業した父は、「捨て子の俺が死んでも悲しむ家族はいない。どうせお国のために死ぬのなら、大陸で思いっきり暴れたい」と陸軍士官学校を受験し、少尉になると志願して満州へ渡りました。
中国軍と小競り合いの日々を送っていた父の元に、1通の手紙が届きました。それはアメリカの祖母からの手紙でした。戦争している日本の我が子のことを心配し、「おまえに会うまで母さんは死なんぞ。おまえも達者にしておくれ」とつづられ、「おまえの弟だよ」と書かれている1枚の写真が同封されていました。
まだ見ぬ母の手紙を読みながら、「俺は親から捨てられた人間だ」と思い込んでいた父は、「俺にも心配してくれている家族がいたんだ」と、胸が高鳴りました。
そのころアメリカでは日本との戦争がうわさされていましたが、日系人は、「まさか戦争はしないだろう」と話していました。でも、うわさは本当になりました。
日系人は強制収容所に隔離されましたが、後に日系アメリカ部隊を編成することになりました。収容所では、日本とアメリカのどちらに付くかでけんかが絶えず、日系1世の多くは2世の若者に、「祖国日本に銃を向けるのか」と怒り、若者は、「アメリカに生まれ、アメリカで育った者はアメリカに忠誠を尽くすべきだ」と息巻き、叔父を含む多くの若者がアメリカ軍に志願しました。
叔父が入隊する夜、ベンチに腰掛けた祖母が泣きながら、「日本の我が子もこの月を眺めとるかのう」とつぶやきました。日本に残した子どもを思う親の心に触れた叔父は、「決して人に銃を向けないことを神様に誓うよ」と、祖母の耳元でささやき、収容所を後にしました。
叔父は通信隊に配属されました。2世部隊の多くがヨーロッパ戦線に向かう中で叔父は、日本軍が玉砕したアッツ島へ赴任し、北海道上陸をうかがいました。「目の前には父母の、そして血を分けた兄が住む日本がある。そこに銃を持って上陸する自分を想像した時、初めて戦争が怖くなり、身震いした」と、戦後私に語りました。
叔父はさらに中国に転任し、日本軍の情報収集に当たりました。その頃父は、満州から日本に転任していました。一歩間違うと兄弟同士が銃を撃ち合う悲惨な状況になるところでした。
終戦後、叔父は日本に進駐する命令を受けましたが、「弟で、しかも、階級が下の私が戦勝国として日本に行けば、陸軍大尉の兄は恥じて自決するので行けません」と命令を拒否し、除隊して帰宅しました。
叔父の無事を見届けた祖母は、病に冒された身を押して祖国日本の土を踏み、父と再会いたしました。祖母はその日から毎日、「寂しい思いをさせたね。ごめんなぁ」と、泣きながら土下座をして父に謝り続けました。
また日本に帰ってからも、月を眺める度に、「アメリカの我が子もこの月を眺めとるかのう」と、父に聞かせるでもなくつぶやいていました。祖母は、戦争で引き裂かれた姉兄弟(きょうだい)が語らう姿を見ることなく、父一人にみとられて昭和23年に日本で亡くなりました。
戦後縁あって金光教を信心していた父は、私を含め3人の男の子を授かりました。私たちがけんかをする度に父は、「けんかはどちらが正しいじゃない。けんかをする姿を見るのが悲しい。神様も切なかろう」と諭し、生涯に一度として手を挙げませんでした。
叔父もまた来日する度に、「戦争は人の幸せを奪う最も悪質な差別だ」と、語っていました。昨年87歳で来日した叔父は、その時に、「親の反対を押して兄さんに銃を向けたことを墓前におわびしたよ。おまえは私が死んでもアメリカまで私の葬儀に来なくてもいい。私は母さんと兄さんが眠るここに来るからね」と、日本を離れる朝に、自ら切った白髪を私に託しました。
こうした戦争体験を聞かせてもらった私は、世界中に起こっている紛争のニュースを目にする度に、「もしも、あの国のあの子、あの人が、わが子、わが弟だったなら」と想像しながら、「どうぞ世界が平和でありますように」と祈れるようになりました。