●信者さんのおはなし
「母が残してくれたもの」
金光教放送センター
「今、私たち夫婦が安心して毎日を送っていられるのは、全部お母さんのおかげなんです」
そう語るのは、茨城県にお住まいの、今年82歳になる柏つや子さんです。
今、自宅でがんの治療を続けているご主人と共に、感謝の毎日を送っているつや子さんに、神様との出会いから今を語っていただきました。
今から8年前、夫は前立腺がん、悪性リンパ腫、胃がんが一度に見つかり、8カ月間入院しました。おかげで治療は順調で、今はわずかな飲み薬で自宅療養をしています。背中と肺に、まだ影が残っていますが、それでも、私も主人も、不思議なくらい何も心配はしていません。母がいつも言っていた、「悪いことを言って待つな、先を楽しみにしなさい」という金光教の教祖の教えが、私たちの生きる指針になっているのです。
私が金光教全隈教会の名前を初めて聞いたのは、長男を妊娠した時でした。妊娠を知った母があまりにも喜ぶので訳を聞くと、結婚して2年間、子どもが出来ない私のために、知人に勧められて、毎日4、5キロもの距離を歩いて教会にお参りしていたというのです。
長男の生まれた昭和34年当時、私は小学校の教師をしていました。今のようにちゃんとした産休制度などなかった時代です。お産で休むと、校長先生か教頭先生が変わって学級を受け持たねばなりませんから、お産は嫌がられます。ですから、その時の私は、妊娠が分かった時は嬉しさの半面、少し複雑な思いでした。「だから女の先生は要らないんだ」、そう言われたくなかったのです。
そんな私の心情を察してか、長男が生まれてからすぐ、離れで暮らしていた私の母が息子を引き取って、ずっと母親代わりをしてくれました。ですから私は、自分の子どものオシメを替えたこともなければお乳も与えたこともありませんでした。
息子が4歳のころになって、私が仕事を終えて帰宅するとうちにやってくるのですが、うちの中をキョロキョロ見るだけで帰っていってしまうのです。そんな時には、「やはり子どもは手元に置かなければ」という気になるのですが、すぐに忙しさにかまけて、母に任せてしまっていました。
長男が通っていた幼稚園の先生は、息子には母親がいないと思っていたらしく、卒園式で初めて幼稚園に行った時、「お母さん、いらしたんですね」と言われたのです。その時は、さすがに恥ずかしさでいっぱいになりました。
母は孫のこと以来、ずっと熱心に教会へお参りを続け、教えを頂きながら私たちのことを願い続けてくれていました。私は時々日曜日にお参りするくらいでした。
私が本気で神様に向かうようになったのは更年期障害がきっかけでした。食事ものどを通らないような状態が長く続き、何とか神様に治していただこうと必死になってお参りを続けました。その頃から、教会は私が一方的にお願いをするだけの場所ではなく、先生に話を聞いていただける場所、そして生き方の指針である教えを頂く場所になっていました。
教員生活の34年間が終わり、無事に退職し、ふと気が付くと、息子は信じられないほど、本当に素直で心の優しい子に育ってくれていました。私は教え子である、他人の子どもにばかり一生懸命向き合ってきたのに、ありがたいことに私の子は、神様が母の手を通して、立派にお育てくださっていたのです。ある時、私は息子に、「何もしてやれなくてごめんね」と謝ったことがありました。でもその時息子は、「お母さんは仕事があったのだから仕方がないよ」と笑顔で答えてくれました。
母は孫の成長を見届け、「みんな仲良く、神様を忘れぬように」とだけ言い残し、お世話になった周りの人たちにお礼を言いながら、86歳で安らかに他界しました。
私も年をとって息子の子ども、私には孫娘ですが、その子のお世話をするようになってからというもの、遅まきながら、だんだんと母への感謝の気持ちが大きくなってきました。息子が曲がることもなく素直に育ったのは、「どうか幸せになってほしい」という、母の愛情のおかげの他なかったと、今さらながら心からそう思います。でも、考えてみると、私はそれを母にちゃんとお礼が出来ていなかったのです。
お礼が出来ていなかったことについては、それは神様に対しても、まったく同じでした。長年信心をしてきたといっても、ただ神様に願うだけの信心だったように思うのです。困った時、いつも母や神様に助けていただいてきたのに、どちらに対しても本当にお礼が言えてなかったと思うのです。
私が今、こんなに安心して暮らしていけるのは、すべて母のおかげ、母が残してくれた信心のお徳のおかげです。すがることのできる場所を与えてくれたのも、すべて母のおかげなのです。
そのことを改めて思い直し、残された人生、今からでも、今度は母や神様へのお礼を土台にした、そんな生き方が出来るよう、稽古をさせて頂きたいと思っているのです。