●先生のおはなし
「大往生の三原則」

金光教今池教会
浅野弓 先生
おはようございます。私は愛知県名古屋市にあります金光教今池教会で教会長を務めています。初代教会長は私の父で、父はいつも「人間は何があるか分からない中を生きているんだよ。だから信心しておかげを受けなければならない」と話していました。その父は12年前に亡くなりましたが、その時の話を聞いて頂きたいと思います。
12年前の冬の朝早く、洗面所でバタンという大きな音が聞こえました。びっくりして駆け付けると、そこに父が仰向けに倒れていました。口をぽかんと小さく開けて、うんともすんとも言わずに倒れているのです。その表情は、慌てふためいている私とは裏腹に、のん気そうにも見えました。私は驚いて救急車を呼びました。
運ばれた病院で、父の容態を見たお医者さんは私を呼び、「もう、何も出来ません。覚悟をして下さい」と言われました。昨日まで、一緒に話をし、笑いもし、今朝だって普通に起きてきて顔を洗っていたのに、「覚悟せよ」と言われても、とても「ハイ、そうですか」とは言えず、出来るだけのことをして下さいと頼み込みました。
先生は、「検査をすること自体が危険ですが、それでもいいですか」と尋ねられ、「お願いします」と、とにかく検査をして頂きました。
検査の結果、心臓の血管が破裂していたそうです。とりあえず血を抜く処置をして頂きましたが、お医者さんからは「危険な状態に変わりありません、いつでも連絡を取れるようにしておいて下さい」と言われ、私は家に戻りました。
枕元に携帯電話を置き、このベルが鳴ったら、もうおしまいなんだと思いながら眠れぬ夜を過ごしました。そんな夜が、一晩、二晩と続く中、私は、「人間は何が起こるか分からない中を生きているんだよ。だから信心しておかげを受けなければならない」という父の言葉を思い出していました。
何が起こるか分からないってこのことだったんだ、平穏な日々の中に突然、降り掛かってきた出来事。親の死に出合うという私にとっては初めての大きな出来事。「どうしたら、いいのだろう…どうすればこんな状態を受け止めることが出来るだろうか、いや、いつまで経っても覚悟なんか出来るものか」とも葛藤しながら、この状況の中で信心しておかげを受けるとはどういうことだろうと考えました。
今までに教えてもらったことが次々と頭に浮かびます。
親が死に、子が死に、孫が死ぬはありがたし、と聞いたことがある。親を先に送るのはありがたいことなんじゃないの? 若い頃から病弱で何度も大病をした父が子どもを頂き、孫も頂いた、もうそれがおかげなんじゃないの? 世の中にはぽっくり往生を願う人が多いっていうのだから、それはこういう死に方なんじゃないの?
色々な思いが浮かんでは消え、浮かんでは消え、眠れぬままに私は神様をお祭りしているご神前に行きました。
ご神前の隣には机が置いてあり、父はいつもそこに座って、本を読み、原稿を書いたり、メモを取ったり、誰かが来るとクルリと椅子を回転し、その人の話に耳を傾けて聞いていた場所。気が付くと、私はその机の前に座っていました。
机の上には何冊かの本とノートが並べて立ててありました。わざわざ机の上に並べてある本。それは父にとって特別な本なのだろうか。そう思いながら、ふと目が止まったのは「死・老人・御霊(みたま)」と背表紙に書かれたノートでした。
「そうか、そうだろうな、父だって自分の死について考えていたはずだよね」。突然、死が近くに舞い降りた今の状況を父だったらどう捉えるのだろうか、その手掛かりがあるように思われました。
そのノートには、いろいろな本や雑誌の中からの記事が抜粋して書き写してありました。「お父さん、いちいち書き写さなくても、今はコピーの時代だよ」とからかうと、「こうして書き写すことで頭に入るんだよ」と答えていた父を思いながら、その中身を読んでいきました。
とりわけ何本も赤い線が引いてあるページが目に止まりました。そこには、
一つ、生きてきたことに大きな意味があると思えること。
一つ、家族や人に愛され、孤独でないこと。
一つ、恨み・つらみがなくて、心の清算が出来ていること。
という三つのことが書かれてあり、「大往生の三原則」とまとめてありました。そして、これを目指すことは信心そのものであると、書き添えられていました。
大往生とは、一般には痛みや苦しみがなく、安らかに死ぬこととか、老衰で苦しまずに死ぬこと、というように捉えられていますが、そこに書かれているのは死に方の問題ではなく、生き方の集大成として捉えられた大往生でした。
父は、この大往生の三原則を目指す生き方を信心として捉え、こうした生き方を日々の生活の中に心掛けていたのだと思うと、父の人生は実際にこの三つを満足したものであった、それはありがたいことだったと思えました。
ならば、このように突然、死が父の近くに舞い降りたにしても、父はこうした人生を送らせて頂いたお礼を神様に申し上げているに違いないと思うことが出来、私の中に少しだけ父の死を受け入れる覚悟が出来ました。
そして、私もまた、
一つ、生きてきたことに大きな意味があると思えること。
一つ、家族や人に愛され、孤独でないこと。
一つ、恨み・つらみがなくて、心の清算が出来ていること。
この三つのことを心して生きていこうと思ったのです。