●先生のおはなし
「祈りの中の出来事だった」

金光教羽ノ浦教会
岩崎道範 先生
私は、今、4人の娘を持つ父親として楽しい生活を送っています。
今から6年前、妻が四女を妊娠していることが分かり、風しんの抗体検査を受けました。産婦人科の先生から再感染していることを告げられ、障害のある子どもが生まれるかもしれないと、その時ある程度は、覚悟致しました。とにかく元気で産まれて欲しいと神様に祈る毎日でしたが、検査の結果が出ているだけに無事出産が終わるまでは、不安でした。
予定日が過ぎ、大事をとって入院することになりました。陣痛促進剤を打っても産まれてくる気配はなく、ただ待つばかりでした。出産したのが、予定日から1週間後。無事に四女を出産。初めて父親として立ち会い出産を経験し、元気に泣き出す赤ちゃんを確認すると、無事に産まれてきたことを神様に感謝致しました。妻も無事出産が出来、ホッとしておりました。
後は、大きくなっていく中でどんなふうに成長していくのか心配ではありましたが、無事にこの世に産まれてくれた喜びに安心しておりました。夜中の出産のため、上3人のお姉ちゃんたちは、早朝学校に行く前に病院に会いに行きました。小さい妹をそれぞれ順番に抱きながら、良かった良かったと喜んでいました。
学校に行く時間も迫り、いったん病院を後にしました。その帰り、看護師の人に呼び止められて、「お父さん、後で時間作れますか? 先生から赤ちゃんのことで詳しいお話があるそうです」と言われ、子供たちを学校へ送り出し、急いで先生の話を聞きに行きました。
妻と病室で待っていると、小児科の先生から、赤ちゃんの状態について説明を受けました。「産まれてきた赤ちゃんに心臓の疾患が見つかりました。風しんによる心臓の疾患ではないです。でも心配しないで下さい。この病気は、必ず治る病気です。ただ、ここの病院では治療は出来ませんので、大学病院へ転院して頂きます」との説明を聞きました。
私は、赤ちゃんと共に救急車で大学病院へ転院することになりました。妻は「良かった、これで助かる」と思っていたようですが、私は救急車の中で「なぜ、この子にこのようなことが起こるのか?」と、なかなかこの状況を受け入れられませんでした。
何が何やら分からないまま、大学病院に到着しました。すぐ新生児の集中治療室に連れて行かれ、保育器の中で処置が始まりました。その間、担当の小児科の先生、心臓血管外科の先生、麻酔科の先生から治療について説明を受けました。心臓の疾患ということで、まず、手術を行うだけの体力が必要となります。ある程度の成長を待ってということで、2週間後が適当だと言われました。親として「神様、どうかうちの娘を守り導き下さい」と祈るしかありませんでした。
手術当日、お世話になっている金光教の先生に、「これから手術に入ります」と連絡すると、「一緒に祈っているから」と言葉を掛けて頂き、その一言で不安な気持ちが和らぎました。
待合室で待っていると、集中治療室の部屋に呼ばれ、担当の先生から、「まだ手術は途中ですが、大事なところは無事終わりました。成功です」とのことでした。このことを教会の先生に報告すると、「良かったのう」と一緒に喜んで下さいました。
手術後、面会が許され、赤ちゃんのそばに行くと、麻酔で眠っている状態でしたが、先生から「つながった血管に血液が自力できちんと流れた時は、手術に関わる全ての人たちが拍手するほどの出来であった」と言われました。それを聞いて本当にたくさんの方々のお世話になっているんだなぁ、ということを感じました。後は、経過を見守りながら治療を進めていくこととなりました。
2週間で集中治療室から小児病棟へ移り、日常生活に向けてのトレーニングが始まりました。毎日、成長していく一つひとつが親として有り難く思わされました。
たくさんの人に祈ってもらい、たくさんの人に支えてもらいました。風しん感染によって病気に対する覚悟が出来、予定日から1週間遅れたことによって、手術が行える心臓血管外科の先生がヨーロッパ研修から帰国していたこと。出産後すぐに「この赤ちゃんおかしい」と気付いてくれた看護師長、何人もの赤ちゃんを見てきた人でないと恐らくすぐに対応出来ていないと思えるようなこと。また、「心配ありません」と自信を持って言い切って下さった小児科の先生の言葉。2年前から出来た新生児集中治療室のある大学病院。
それ以外にも「ここしかないタイミング」の中で、それぞれが、順序良く繰り合わせて頂いて、神様と共に歩んでいるとしか思えない働きでした。
6年たった今、妻にあの時、前向きな思いになれたのはどうしてなのか聞いてみると、妻は「祈りの中の出来事だったからすべてを受け入れることが出来た」と言いました。
私はそれを聞いて、自分たちではどうすることも出来ない状況でも、祈り祈られることによって、心が元気になるような働きが生まれてくるように感じました。神様が様々なことを通して、私たちを安心させようとして下さっているのではないかと思えるのです。