●先生のおはなし
「人の痛みに寄り添う」
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金光教金沢教会
菅原信一 先生
長男の高校合格発表の日は、特別な思いで迎えました。
ちょうど受験の1週間前の真夜中、息子が突然「わーっ」と大きな声をあげました。私は、隣の部屋で寝ておりますが、続けて「痛い!」という声と畳をバンバンたたく音を聞いて目が覚めました。
「いくらなんでも夜中やぞ。みんな寝ている時にどういうことだ。痛いというなら痛いのだろうけれど、畳まで叩かなくていいだろう。お前の年なら、少々痛いぐらい我慢しろ。眠たいのに面倒くさいな」という思いがわきましたが、同時にハッとして、息子の様子を見るために布団を出ました。以前聞いたある金光教の教会の先生の話を思い出したからです。
90歳を超えた信心熱心なおじいさんが、治療中の足の痛みに耐えられず「痛い、痛い」ばかり言っていたそうです。最初は、あんなに信心熱心だったおじいさんがどうして神様におすがりすることも忘れてしまったのだろうと思ったのですが、痛そうな姿を見ているうちに「本当に痛い時は痛いんだよなあ」と思えてきたそうです。
先生は、おじいさんのつらさを改めて感じ直し、その後も、おじいさんのことを一心に祈りながら、見守っていきました。無事に、おじいさんは、少しずつ頑張って歩く稽古が出来て、再び歩けるようになったそうです。
真夜中に畳をバンバンとたたいて「痛い!」と叫びだす息子。私は先生の話を思い出し、畳をたたくぐらいなのだから、それは相当痛いに違いない、と素直に思えたのです。
そう、痛い時は痛いのです。私こそ、人の痛みを本当に分かろうとしない自分でした。叫び声に対して、「それくらいの痛み我慢しろ」と、一瞬でも思ってしまった。これは、全く痛みを理解しようとしない者の発想でした。痛みというのは本人にしか分からない。それを分かろうともせず、迷惑だと考えるのは、自分本位な親かもしれません。うっかりすると日頃からそうなっている私ではなかっただろうか。申し訳なかったと思いながら、隣の部屋へ入りました。
「金光様」とお唱えして、タオルを絞って、それを痛がっている右耳に当てるなど、自分なりに手当てをし、2時間ほど枕元で話をするなどして付き添っているうちに、息子は再び眠りに付きました。朝になって、病院に行くと、中耳炎ということでした。
「人の痛みを理解する」と言葉では簡単に言いますけれども、実際はそう簡単ではありませんね。人の痛みを本当に分かるということなくして、その人が助かるということはないのではないかと思います。「うるさい。黙っていろ!」と言いかねない危うい自分が、一つの話がきっかけで、思い直すことが出来ました。この先生のお話は、神様が私に聞かせて下さったものではないかと思うのです。
中耳炎の治療を受験の1週間前に済ませた息子は、落ち着いて試験を受けられ、おかげさまで、県立高校に合格いたしました。大変な神様のお骨折りを感ずることが出来、私自身が神様にお育ていただいた上に、息子にとって希望通り人生の難関を通り抜けることが出来、喜びも倍増でした。
その後、我が家では、妻が更年期障害で悩んだり、父の認知症の症状が進んだり、また、高校へ進学したその息子が不登校になりかけたりと、いろいろ変化がありました。
父の場合、随分前から、物忘れが多くなったり、今まで一人でこなしてきたことなどが滞るようになり、やっぱり年だなあぐらいに考えていました。耳が遠くなって話が通じにくくなり、会話がすれ違うとこちらもイライラがたまって、口論になってしまうこともありました。
息子の一件があったあと、ある時ふと「ひょっとしたら、耳が悪いというだけでなく、こちらの言葉が理解出来ないんじゃないか?」と思ったのです。そうだとしたら、私の話していることが分からなくてイライラしていたのは父の方で、私なんかよりつらかったのではないだろうか? 膝が痛い、頭が痛い、話が分からない、という父の抱える問題に一緒に向き合っていかなくてはと、思えてきたのです。
その後、父が体調を崩し、病院へ行く機会があった時、認知症の検査を受けることになりました。脳の萎縮が認められ、しかも言語機能をつかさどる部分に支障があるということが分かったのです。やっぱり。当たり前に出来ていたことが出来なくなっていることに対する戸惑いやつらさを一緒に感じながら、父に寄り添っていかなくてはと思わせていただいております。
おかげさまで、父は現在、家に居ながら、時々デイサービスも利用し、食卓に家族がそろうことを喜び、周囲の人が笑顔でいることを喜びながら、毎日を過ごしている様子です。
こちらの都合で考えてしまって、世話をしなければいけない自分が被害者だという意識になることは、今ではなくなったような気がします。目の前の相手が一番悩んでいるのだと素直に思えるようになりました。あの真夜中の経験を通して相手に寄り添っていける自分にお育ていただいたことが、その後の妻や息子の場合でも、生きたように思えます。
神様のおかげで、私ども家族は、お守りいただき、お育ていただいております。信心をもとに何事も通らせていただきたいという思いを新たにしているところです。