神様が社長


●信者さんのおはなし
「神様が社長」

金光教放送センター


(ナレ)杉山謙三すぎやまけんぞうさんは現在67歳。三重県伊勢市にある金光教伊勢いせ教会にお参りされています。代々金光教を信心する家庭に育った杉山さんのいつも身近に、教会はありました。

(杉山)私は、信心3代目でございます。祖父の代からの金光教ということで、子どもの時分に、もう既にお広前ひろまえで遊んでおりました。伊勢教会も本当に家族的で、私どもの場合は育てて頂いたし、周りを取り囲んでくれる人というのは、逆に見守って頂いたというか、本当にお教会の中でお育て頂いとるという部分については、非常に恵まれた立場にあるというふうに思わさせて頂きますね。

(ナレ)杉山さんは、お父さんから家業である水道・空調設備の会社を受け継ぎます。信心深かったお父さんに、杉山さんは大きな影響を受けました。「仕事は自分の力でするのではなく、神様にさせて頂く」。この思いを大切にしながら、今日まで仕事に携わってきました。

(杉山)「家業という業にお使い頂いとる俺は、社長という番頭なんや」という、そのことに思い至った時に、「俺が俺が」ということやなしに、ともかく経営の上では、仕事をするということではなくて、「私は結局杉山設備の社長という名の番頭なんや」という考え方に立ち、お使い頂いている。そういうふうに思いますね。

(ナレ)金光教の教会では、奉仕する先生が、お参りした人の願いを神様に祈り、色々な教えを話してくれます。これをお取次とりつぎと言います。自分の仕事は神様から授かったものだと思い、一生懸命に働く杉山さんの支えになったのは、教会の先生の姿でした。

(杉山)結局受け切って頂けるという安心感がございますよね。良いことも悪いことも結局受け切って頂く。私としては、それで一生懸命にご祈念して頂いているという姿勢を現実に見て感じて、肌で感じておりますから。教会へお参りする時に、ご神前へ額ずいて一生懸命お取次して頂いとる姿勢が再々と自分の目に映るわけですよね。お取次という姿勢は、親先生のご祈念の姿勢というんか、平生お参りがない時にご神前で額ずいてお取次をしてみえるという姿勢を見させてもろうた時にね、やっぱりあそこまで本当に真剣に…そんなことを親先生もひと言も言いはなさいませんけど、その姿を見させてもらう時に、もっと真剣にお取次を頂かないかんのやろうなと思います。

(ナレ)お取次を頂くのは、仕事のことだけではありません。数年前、杉山さんのお母さんが認知症になって、事実ではないことを色々言っては周りの人を困らせるので、先生に率直な思いを打ち明けました。

(杉山)もう、うっとうしいもんですから、なるべく近寄らないようにして、教会に行っても、うっとうしいというお届けしかしなかった。そやけど親先生に、「それは違う」ということで。母親が今日まで生かされてきたいうことを、母親が今日まで命を頂いてきたお礼を申し上げて母親に接すると、言わんようになった。それで手を合わせるようになった。母親の態度も変わってくるんですね。ですから、自分が母親のことについて鏡みたいに、自分の信心が曇ると、やっぱし母親の病気が出てくる。自分の信心が母親のことでお礼の言える気持ちにならさせてもらうと母親が喜ぶというか、穏やかになるというような鏡みたいなことが、ここ2、3年現れて参りまして、そのことを一つずつ改まるなり、考えを改めさせて頂く。またそういうことを勉強させて頂くということで本当に現れてくるというか、そうすると本当に不思議…不思議と言ったらいけませんね、成就していくんですよね。

(ナレ)毎日教会にお参りし、お取次を頂く杉山さん。今ではとても安心な気持ちで過ごしておられます。杉山さんは、朝起きた時、夜寝る前に布団の上で神様を拝みます。

(杉山)今はね、ほとんど無に近いです。ありがとうございましたっていう無に近いです。今日も一日無事に済ませて頂いてありがとうございます。休ませてもらいます。本当に今こんなに恵まれとって、逆に、「神様、こんなにお与え頂いてよろしいんですか」というくらい本当に恵まれておる状態ですから、杉山家にとって、私の代にとって、父親から頂いた徳をですね、今度は自分の息子や娘や、それから今はちょっと息子や娘は飛び越えて孫にですね、例え1割でも積み増しをさせて頂けるようなことを、今一生懸命願わさせて頂いてますね。

(ナレ)神様に使って頂くという思いを胸に、杉山さんはこれからも神様と一緒に歩もうと願われています。

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