●先生のおはなし
「感謝の拍手」

金光教名張教会
近藤佐枝子 先生
1年ほど前、私が奉仕する教会にお参りしている亜沙美さんに、初期の胃がんが見付かり、手術をすることになりました。
彼女は最初、痛みを感じて病院に行き、がんが見付かったのですが、痛むほど進行していたわけではないのに痛みがあったことに、担当の先生が驚いたそうです。亜沙美さんは、「痛みというのは本当にありがたいです。痛みに感謝しないと」とおっしゃいました。痛みはつらいことではありますが、病気を知らせてくれるメッセージだと思うと、痛みにさえも感謝をさせて頂きたいものだと思うのです。その後、1年が経った先日の検診でも異常はなく、元気に過ごしておられるのはありがたいことです。
私がそんなふうに何事にも感謝を意識するようになったのには、訳があります。
話は私が金光教に出合う前の学生時代にさかのぼります。
私は当時、野外活動のクラブに入っていました。ブランコやシーソーなどの遊具作り、無人島でのキャンプ、自分たちで生きた鶏をさばいて食べたりと、大自然の中で様々な活動をし、色々なことを学びました。
いつもプログラムの最後には、先輩方から代々伝わる、「感謝の拍手」という行事があります。この「感謝の拍手」とは、全員が目を閉じて、まずはその日に行ったプログラムを思い返す時間をたっぷりと取ります。次に司会者の進行の下、天地に、食物に、水に、道具に、行動を共にした仲間に、そして最後に自分自身に感謝の拍手を贈るというものです。
目を閉じているので、聞こえるのは、川や風、そして鳥の鳴き声など、自然の音だけです。自分と自然だけの世界になってくるからか、天地の中に自分が生きているということを実感出来てきます。すると、その日に起きた小さなトラブルや自分の負の感情などが、取るに足りない物のように思えて、心が浄化されていく感覚になります。
そんな時間をたっぷり取ってからの感謝の拍手です。疲れてへとへとになるはずの帰り道が、不思議と穏やかな気持ちになるのです。当時のあの感動は今でも、私の心に深く刻み込まれています。
その後、私はある男性と知り合いました。彼からは、人や物を大切にして、楽しんで生きている様子が伝わってきました。そして、「尊敬している人は両親」とさらっと答えている彼に私は驚きました。何の照れもなく両親への感謝の気持ちを他人に伝えることが出来る人は、私の周りにはいなかったからです。それが私と金光教の出合いでした。というのも、彼は金光教の教会で生まれ育った人だったのです。やがて彼と結婚し、私は教会で生活をすることになりました。
教会の皆さんから教えて頂いたのは、信心はまず、「お礼から」ということでした。ですから私は、「感謝の拍手」で感じた思いを大切にしながら、日々感謝の気持ちを持つことを心掛けていました。しかし、当時は、「あれもやらなきゃ、ちゃんとしなきゃ」という気持ちばかりが先走っていたような気がします。
そんな自分の姿をきちんと見つめることが出来るようになったのは、数年経ってからのことでした。それは、実家の父が、教会にお参りになっている方に謝っていたのを偶然に聞いたことがきっかけでした。信仰心の全くなかった父でしたが、大きなお祭りの時などは、教会に来て手伝いをしてくれていました。その時、こっそりと私の気の強さや心配りのなさを謝ってくれていたのです。
私は、口では、「感謝の心が大切だ」と言っておきながら、例えば掃除道具を片付け忘れたりなど、よく小さなことが抜け落ちていました。早く皆さんに受け入れてもらいたいと思っていたのでしょう。焦りからか空回りして、時にカリカリしたり、「私は頑張っている」という自己満足だけで、周囲への気配りも出来ず、いつしか感謝の気持ちを見失っていました。
父が私のために、そっと謝ってくれていたことを知り、そういうことをさせてしまった自分を反省し、改めて自分を振り返るきっかけとなりました。
それ以来、どんな時にでも、感謝の気持ちが持てるようにと、ありがたかったことだけを書く日記を付け始めました。最初は、1日3つと決めて、とにかく頭をひねりながら書き出すようなことでした。嫌なことがあった日などはなかなか思い付かなくて、3つ書くのに苦労した時もありました。
しかし段々と書くことも増えていき、感謝は連鎖することを知りました。1つのことに感謝出来ると、それにつながる色々なことに感謝の気持ちが持てるようになりました。
「生活の全てが感謝の心に通じる」と実感し、しばらくして日記を書くことをやめました。ただし、稽古が必要だと感じます。余裕が無くなると、ついつい忘れてしまいがちの私です。これからもありがたいことを見付ける稽古を続けていきたいと願っています。
私は学生時代に、「感謝の拍手」を通じて、金光教の信心の土台である、「感謝する」ということの骨組みを作ってもらったように思います。そして、それに肉付けしていくのは日々の生活なのだと感じています。
教会の信心目標に、「うれしく、たのしく、ありがたく」という一文があります。私はこの願いに沿って、これからも生活の中でもっとたくさんの、「感謝の拍手」が贈れるようにと、「ありがとう」を探していきます。