●信者さんのおはなし
「いのちの躍動が聴こえる」
金光教放送センター
香川県の丸亀城。白鳥が遊ぶお堀から見上げると、そこには高さ60メートルを超える石垣があります。積み上げられた石垣の高さは日本一と言われ、400年の歴史を刻んでいます。お城の近くに、金光教丸亀西教会があります。今朝は教会の御子息である河口教昌さん、36歳のお話です。
お話を伺うために案内された部屋には、ピアノが置いてありました。そして棚にはDVDがたくさん並んでいます。その中で『河口教昌バリトンリサイタル』という文字が目に止まりました。彼は声楽家です。
東京芸術大学音楽学部を卒業した河口さんは現在、新居浜市民合唱団の指揮者であり、高松市の交響楽団のスタッフをしています。音楽の道に進むキッカケになったのは、幼い頃から、お姉さんの弾くピアノと歌を耳にしていたからだそうです。
河口さんが大学に入った頃のことです。慣れない東京での暮らしに足を運んでいたのが、金光教麻布教会でした。その頃を振り返り、河口さんは言います。「忘れもしません。大学最初の講義でしたが、教授から、音楽の取り組み方について、非常に厳しく叱られたことがありました。その日は家に帰る気になれず、足が自然と教会の方に向かったんです。神前にぬかずいた瞬間、涙が溢れてきまして、声を上げて泣いたことがありました」。
河口さんにとって教会は、どんな悩みも吸い取ってくれる場所になりました。河口さんは、「僕にとって神様は、光であり、慈しみというか、優しく包んで下さるものです」と静かに話されます。しかしその表情からは、日々、命と向き合う河口さんの強さが見えます。
実は河口さんは生まれた時から腎臓の機能が弱く、子どもの頃に、いずれは腎臓移植か人工透析が必要になると、医師から言われていたそうです。薬を飲みながら学校に通っていましたが、大学4年生の時に、いよいよ移植か透析の選択を迫られることとなりました。透析を長年続けていくと、体に負担が掛かるからと移植を進められていたそうですが、ドナーが見つからず、結局河口さんのお父さんが検査の結果、ドナーとして適合することが分かったのでした。
当時を振り返り、河口さんは言います。「移植をしたとしても、10年経つと、透析が必要になる可能性が高いということでした。ここで父の腎臓を頂いたとしても、使い捨ててしまうような申し訳ない気持ちになりまして、自然と透析の道を選びました。もう14年目で、透析の回数は3000回位になります。透析は週3回で、1回につき5時間して頂いています。遠い所から来られる患者さんもいる中、私は偶然、病院が家のそばで、徒歩2分という近さなんです。実は今日も行ってきました」。
そう話す河口さんの声は少し出しにくそうな様子です。
人工透析では、腕の血管から血液を取り出して老廃物を除き、奇麗にして体内に戻します。腕には透析しやすい処置がされていて、血流が生々しく感じられます。透析直後の左腕を、河口さんは、「どうぞ」と差し出して下さいました。そうっと腕に触れた瞬間、勢いよく流れる血流の振動が指先に伝わってきて、まるでザーザーと強い音が聞こえるようで、命の躍動が感じられます。
河口さんは、現在の心境について、こう話します。
「透析をして仕事に行くんですが、直後は階段を上るのもしんどくなります。でも透析をしないと命をつなげません。だけど、大変だとは思いません。むしろこのことで巡り会えた人たちもいます。
香川県と愛媛県の腎臓病患者の会の人から、お話と歌を歌って頂けませんかと言われました。去年させてもらいましたが、わざわざ来て下さった名古屋の大学教授が一番前に座っていて涙して下さったり、公演後に出口の所で、年配の方がずっと私の手を握って離されないということがありました。人に勇気を与え、生きる意味を感じて頂けることがありましたら、それは神様が私に、これを一つの道として伝えなさい、と言って下さってるのかなと思うようになりました。
実を言うと、最初のリサイタルの時には、透析のことを公表しませんでした。他人と違う体であることを恥ずかしく感じていたんです。それがある時、合唱団の方に言われました…。なんで隠そうとするのか。個性なのに…。それぞれの人間のそれぞれの個性があるんじゃないですかと言われた時、世界が開けた気がしました」
河口さんはさらに続けて穏やかな表情で話しました。「現状を苦にしないでいられるのは、金光教の存在があるからです。いつも神様が守って下さっているように思うんです。僕から音楽を取れば、何も残りませんよ」
(フェードイン 歌)
河口さんは最後に歌って下さいました。
力強い歌声を聴いた時、先程触れた河口さんの腕を勢いよく流れる血液が、まるでオーケストラが奏でる音だったような錯覚を起こさせました。そこに生かそう生かそうとする神様の声が聴こえてくるようでした。