●信心ライブ
「おかげって何だろう?」
金光教放送センター
(ナレ)金光教の集会で行われた発表や講話などを録音で紹介する「信心ライブ」。今日お聞き頂くのは、平成26年4月、鳥取県根雨教会の教師、佐藤剛志さんが、ある教会で18歳の時の体験を話されたものです。佐藤さんは高校生の時、両親と弟を相次いで亡くし、家族は20歳のお兄さんと自分の2人だけになってしまいました。念願の大学には合格したのですが…。
(音源)だけどね、喜びもつかの間なんですね。お金は無い。どうしようと。もうここまでかなあと、半ば諦めかけておったんですけども、その時に高校の進路指導の先生が、ある奨学金の制度を教えて下さった。この奨学金は一番高く、しかももらえるものだと。だけど、一番審査が厳しく、採用も全国で1名。やってみるかと言われて、えーっと思いました。その審査にはですね、たった一つ、小論文を書くということが決まっておる。そのテーマとは、「将来の希望」というテーマだったんですね。
繰り返しますけども、私のその時の状況は、母、弟、そして父と、立て続けに亡くなって、とにかく悲しくて悲しくてしょうがなかった。今の状況に不満こそあれ、到底希望を持てる状態じゃないですね。そんな状況の中で「将来の希望」という小論文が手渡されたんです。どんなに頑張ってもこれは無理に決まってるなあと。締切が、しかも1週間後。持って帰っても、一文字も書けん。そんな状態が3日過ぎたんですね。
(ナレ)そこで佐藤さんは、神様の前に座り込み、これまでのことを振り返りながら、心に浮かんだことをノートに書き留めていきました。
(音源)これもう原文のままです、その時の…。
弟は孔脳症という、生まれつき大脳の大半が欠乏した状態で生まれてきたこと。
医師からは、出産前に、「この子は生まれても1年持たない。また、重度の障害を抱える」と断言されたが、父と母は、「例え短い一生であろうとも、重い障害を抱えようとも、かわいい我が子に変わりはない。この子の生まれた意味を、神様がこの子に持たせて下さった御用を、親として見つけていこう」と夫婦で誓い合ったということ。
目も見えぬ、耳も聞こえぬ、生涯寝たきりという重い障害を抱えた弟であったが、両親の一生懸命なご祈念の中、神様が13歳まで保たせて下さった。弟の働きが徐々に現れてきて、私たち兄弟の心を優しくしてくれ、また育ててくれ、家族の心をいつしか豊かにしてくれたこと。
そして、弟がいたころ、常に流れていた穏やかで心地よい空気は、両親がどこまでも神様に真剣に向き合って、信心を生活に現す努力をしてくれたおかげであった。
体が不自由だったその弟を中心に、生き生きと生活していた楽しかった時のことがね、すごいその時に思い起こされたんですね、ご祈念中に。それを一つひとつ書き留めていった。それが3日続いて、締切の前日の夜、そのメモを基にして一気に書き上げたんですね。
で、書き終えた時、何とも不思議な思いでしたね。あれほど書けんと思っていたものが今、目の前に出来ておるんですね。これは神様が書かせて下さった、いや、神様が書いて下さったんじゃないかと、本当にそう感じたんですね。
で、何よりも意外だったのが、その、書く前には将来に対して、希望というものがほとんど持てない自分であったのに、書き終えるころには、不思議と将来に希望を持ち始めている自分がそこにあったんですね。なぜそういうふうに思えるようになったかというと、両親の神様への向かい方、つまりは親がしてくれた信心というものを、その姿を再確認出来たということが大きかったんですね。
さてどうなったかですね、結果が。
見事採用となりました。ほぼ大学生活全部を賄ってくれるものでした。おかげでですね、たくさんの方々のお祈りの中で、本当に実り多き学生生活を送らせて頂いた。
皆さん、おかげって何でしょうかね。財が全く無いところから、奇跡的な財のおかげを頂いたこと、またそれで大学に行けることになったということもおかげですね。でも、単純にそう思えんのですね。お願いしておかげに到達するその道中にですね、もっといいおかげがあったからなんですね。何かというと、神様のお働きに触れるということが出来た。そして私という人間をちゃんと見て下さっている、私のことを本当に大切に思って下さっておる神様に出会えたということが、一番のおかげだったですね。
神様のお心に触れることが出来て、そして先の安心を頂いたということが、もうこれが一番のおかげです。
(ナレ)家族を次々に失った悲しみと不安の中にあっても、心を静めて神様と向き合った時、見えてきたのは、自分がこれまで、どれほどに、両親の深い愛情の中で育てられてきたか。そして今も、神様からどれほど可愛がって頂いている自分であるか、ということだったんですね。
人間に生まれた限りは、寿命の長い短いがあり、避けることの出来ない病気もあるのでしょう。しかし、3人の子どもたちを、神様からの授かりものとしていのちの限り愛おしんできたご両親の信心は、今なお剛志さんの中に生き続けています。
信心というものは、死んだらおしまい、というものではないんですね。生き死にを超え、世代を超えて働き続け、子孫にも幸福をもたらしていくものなんだということを、このお話は教えてくれています。