争いを生み出さない生き方


●平和
「争いを生み出さない生き方」

金光教放送センター


(ナレ)今日紹介する高島祥郎たかしまよしろうさんは、昭和6年生まれの85歳。大阪の城下町、船場せんばで生まれました。当時、高島家は、船場商人の娘さんたちに、三味線やお琴、生け花や茶道を教えていました。
 幼いころの暮らしや、町の様子を伺いました。

(高島)昔から船場といったら、商売人の町ですし、わりと生活は裕福でしたですね。
 今のような外国からの食事はありませんけど、おすしとか魚料理とか、よくありましたね。
 私はおばあちゃんの初孫なんで、可愛がってもらい、よく歌舞伎とかに連れて行ってもらっていました。だから母は、「あんたは幸せやで、毎日毎日あっちこっち連れて行ってもらって」と言っていました。
 市電に花がいっぱい付けられて、花電車が走ってましたし、色んな国の行事がありましたらね、そら町を挙げての色んな記念パーティーとかね、そんなのがありましたね。何かそのにぎやかな雰囲気だけ覚えています。

(ナレ)活気あふれる大阪で育つ中、昭和16年に太平洋戦争が始まります。その翌年、小学4年生の時、一家の中心の父親が、咽頭がんで亡くなりました。今までの華やかな生活が、徐々に変わり始めます。

(高島)昭和16年12月8日に戦争が始まった時、僕ら子どもなりに、いくつかの軍艦を撃墜したということで、「バンザイ」と、友達とえらい大騒ぎした覚えがありますね。
 もう遊ぶいうたら戦争ごっこばっかりでした。当時の大統領の絵を書いて、それを竹やりでね、「えいやあ!」という、そんな遊びをしていましたね。
 しかし間もなく、段々段々戦況が悪くなっていったわけです。

(ナレ) 戦争の影響が一層色濃くなっていく中、小学生の時、体験した痛みは今でも忘れられません。

(高島)私の担任の先生は、後に戦死しましたが、海軍将校で、非常に厳しい先生でしたね。ある日、雨降りの日に誰かが廊下を下駄のまま歩いたのがおりましてね。で、「誰が歩いたか?」って先生が聞いても誰も返事しませんねん。で、当時私の組は45名ぐらいおりましたが、「全員廊下へ並べ」って言われましてね。前から順番に全員殴られました。「誰かが歩いているはずやけど、貴様ら返事をせん。それなら連帯責任じゃ」と。「戦争で一人がミスすると、全部殺されるんだ。そんな時代に、お前らそういう考えではならん」。で、私は背が低い方なので、前の方だから殴られるのがきつかったんですよ。そういう教育でしたもん。その当時は。

(ナレ)生活全てが変わっていきます。服装も女性は着物からもんぺに。男性は薄茶色の国防服に。食料も配給となります。

(高島)非常に厳しかったですけど、これはうちだけじゃなくて、町会、皆さん方一緒でした。昭和18年ぐらいになりますと、大根一本だけが町会に来るわけですね。それで5軒あったら5つに分けてね、仲良く皆それを頂いたですね。
 お米も無くて、芋の端とか、野菜の残りとか、とにかく食べられるものは皆食べようということで、お米の入ってないおかゆさんに、まあいわゆる、今で言う豚の餌のようなものを皆頂いてましたですね。みんなそれは不足に言わずに、「日本が勝つためにはお互い不自由しましょう」というような、そういうふうな状態でしたですね。非常に食べ物には不自由しましたですね。

(ナレ)昭和19年の末には、B-29が夜に飛んで来て、警報が鳴り響く日が増えました。畳をめくり床を上げ、地面を掘った防空壕の中で、死ぬことを予感させられ、恐怖を感じました。
 昭和20年3月。母子家庭は国から強制疎開を言い渡されたため、母親の田舎へ移り住むことになりました。

(高島)町の子だっていうことでいじめに遭いましたけど、まあしかし、何カ月かするうちに、私も割と誰とでも合わすところもありましてね、すぐ仲良くなりました。
 ただ、問題は皆、勉強をほとんどしていないんです。朝学校へ行ったら、「今日はどこそこの山へ行く」と言われて、ずっと山へ行って、松の根を掘り起こして、それをそこそこの大きさに切って、めいめい背負って、工場へ持って行きました。先生に、「これ何?」と聞いたら、「これはガソリンの変わりだ」と。「ガソリンが無いので、これを機械で絞って、この油で飛行機が飛ぶんだ」と、そう教えられたですね。
 とにかくあの当時は勉強というよりも、お国のために尽くすということが徹底されてましたね。

(ナレ)その疎開先で終戦を迎えました。生まれ育った大阪は空襲を受け、住んでいた家も焼けました。当時の友達とも、誰一人連絡が取れなくなりました。
 その後、いくつか職を転々としますが、祖母の代から金光教の信心をしていたこともあり、金光教の教師となりました。

(高島)戦後は、色々と自由な時代になってきましたが、教育によって人生は変わる。だから戦争反対ということの前に、戦争をしないような教育が大事だと思います。また、教育というのは学校だけでなくて、家庭も職場も、全てにおいて、争うということの考え方をしっかり皆意識していませんと、自分さえ良かったらええ、わが町さえ良かったらええ、わが国さえ良かったらええということが大きくなったら戦争でしょう。正しい教え、教育をしてもらいたいですね。

(ナレ)高島さんは争いを生み出さないような在り方を求め、これからも、相手の助かりを願い、世界の平和を祈り続けています。

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