生かされてあり


●信心ライブ
「生かされてあり」

金光教放送センター


(ナレ)金光教の集会で行われた発表や講話などを録音で紹介する「信心ライブ」。
 今日は、神戸市長田区にある金光教尻池しりいけ教会の谷口忠道たにぐちただみちさんが、平成28年4月、阪急塚口はんきゅうつかぐち教会でお話されたものをお聞き頂きます。
 谷口さんは現在74歳。教会長として、教会を訪れる方々の悩みや苦しみに向き合っておられます。年を重ねた谷口さんが、改めて今、若い日のことを振り返ってお話されています。
 
(音源)実は、私がいつも、「今の今おかげ、ご神徳しんとくの中」というような思いにならせて頂いた出発点はですね、学生時代に、腎臓病を患うておりましてですね、毎日がうつむいた生活をしておったというところがあるわけです。
 友達なんかはみんな元気で大学生活を楽しんでおる。私は、もうずっとうつむいて生きておると。それで私は中国語を勉強しておったんですよ。商社へ行って、まあ、そういうところで仕事をしたいなあと、そんなふうに思っておりました。
 ところが、腎臓病になりまして、もうそういう将来の道と言うのか、夢と言うのか、それが、ああ、これはもう駄目だなあと。そうしたら、何を目的に生きて行きゃあいいんだと。何を目的に勉強すりゃあいいんだというところで、なかなかね、自分自身のところで、つかめないんですよ。それでもう、毎日毎日、つらいですね。暗い生活を、学生生活をしておったということです。本当に、希望のない1日1日であったなあということであります。
 それで、そういう希望のないつらい1日1日を過ごしていくということの中で、精神的にですね、非常に追い込まれていくんです。
 人間弱いもんです。もうそういうことになりましたら、悪い方に悪い方に考えていきます。それでついには、死というものを考えていきます。
 まあ、そういうところにいたわけですよ。私の生まれたところは金光教飾磨しかま教会。だから、ご神前があります。そのご神前に、小さな教典が置いてあるんです。それで私もその教典を取りました。それで、教典を取りましてですね、この、パッと開けたら、どういうみ教えが出て来たかと言うたら、「疑いを放れて広きまこと大道おおみちを開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり」。こういうみ教えが出てきたんですよ。すごいと思いません?
 それでですね、あのー、皆さん、信じてもらえるかなあ…。このみ教えに出会うてねえ、私は本当に、抱かれてしまったんですよ。「わが身は神徳の中に生かされてあり」。だから、「神徳の中に」という意味は、まだ分かりません。その時は。それで、「生かされてあり」という、そういうみ教えにですね、本当にね、抱かれたんです。それで、ある意味、助かってしまったんですよ。
 というのは、それまでは、今日1日、今日1日、僕はどうやって生きていったらいいんやというところで、「生きる」希望を、なかなか見付けることが出来ない。
 ところが、この教えでは、「生きる」いうことではなしに、「生かされてあり」と。「神徳の中に生かされてあり」。こうなんですよ。そしたら私はね、「ああ、もう生きよう、生きようと思うて、もがかんでもええんやなあ」という気持ちになりまして、もう、抱かれていったらええんやな、生かされていったらええんやなあという、そういう気持ちになってしまったんですよ。
 これは、すごいねえ。み教えのねえ、お徳ですわ。すごいなあと。それで、こういうみ教えに出合うということの中でね、親が一生懸命ね、私が腎臓病やということ知っておりますから、だから、ずーっと祈ってくれておった。親がそういうように祈ってくれておるいう、取次の祈りを受けてね、私は、そのみ教えに出合うことが出来たと、そういうことであります。

 
(ナレ)いかがでしたか?
 若いころの病気。そして、その病気をきっかけに陥った、生きる望みを失った、心が沈む毎日。ゆっくりと言葉を紡ぎ出し、噛み締めるように話される静かなお話しぶりから、若い日の谷口さんの苦しみが、ひしひしと伝わってきました。
 今、年を重ねた谷口さんからにじみ出るように伝わってくる安心感は、「神様のお徳の中に生かされているんだ」という実感に支えられて生きてきた、その人生の歩みに裏打ちされていることは間違いありません。
 人は、困難にぶつかり、つらさを抱えた時、生きる希望を失いがちです。そんな時こそ、ふっと一息、深呼吸をするように、「わが身は、神徳の中に生かされてあり」という言葉をつぶやいてみて下さいね。

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