●こころの散歩道
第1回「ヒーローの笑顔」
金光教放送センター
ああ。間に合った。
やっとの思いでホームに駆け込みました。情けないかな、ちょっと走っただけで、息も絶え絶え。こんな寒い朝だというのに、汗をかいてしまいました。
一息つく間もなく、電車が入ってきます。
ドアが開いて、乗り込もうとした時。
「あのう…」
最初は、呼び掛けられたのが自分だとは気付きませんでした。
「あのう」
振り返ると、市内の中学校の制服を着た2人の少女です。肩で息をしながら、赤い顔で、白い息を吐いています。
「これ、落としましたよ。さっき、改札の所で」
見ると、一人の手にはマフラーが。
「あ。どうも。ありがとう」と、何とも間の抜けた返事をしながら、受け取り、乗り込んだところで、電車のドアが閉まりました。
いつの間に落としたんだろうか。急いでいて気付かなかった。え、改札の所で? ここまで追い掛けてきてくれたの? と、一瞬のうちに思い、ドアの外を見ると、2人は、まだ息を切らせながら、「良かったね」とは聞こえなかったけれど、そんなふうに何ともうれしそうに、赤い顔を見合わせています。
ゆっくりと動き出した電車の窓から、「ありがとう」と声には出さずに、2人に頭を下げました。
電車に揺られながら、考えました。
あの2人は、前を走って行くおじさんがマフラーを落としたのに気付いて、それを拾って、改札の所からずっと、追いかけてきてくれたのだろう。階段を上って、1番線から6番線まで跨線橋を渡って、そして階段を下りて、ホームまで走ってきてくれたのだろう。…何ということだろうか。
そして、落とし主に追い付いて、ようやく手渡せたことを、あんなふうに喜んでくれている。その笑顔たるや、きらきらと輝かんばかりで。
それに引き換え、こちらの受け答えの、何と気の利かないことであったか。もうちょっと、ちゃんとお礼が言えなかったものだろうか。いや、そんなことよりも、どうしてあの2人は、あんなことが出来たのだろうか。そして、それを喜んでくれたのだろうか。
そんなこんな、行きつ戻りつ考えていて、思い出したのが、何年も前の出来事でした。
ある晩、仕事終わりに同僚数人で、ちょっと飲みに行った帰り道のことでした。
あいにくの雨が、だんだんきつくなって、いつの間にか大雨になっていました。傘を差しながら歩いていると、雨の音にかき消されるようにして、「ニャーニャー」と、か細い声が聞こえてきます。
「子猫じゃない?」
「うん」
「あ、あそこあそこ」
一人が指さした、街路樹の根元の所。そこに一匹の子猫。ニャーニャー鳴きながら、おぼつかない足取りでよちよち歩いています。
「親猫とはぐれたんだろうか」「ずぶ濡れになっちゃって…」「かわいそうに、大丈夫かな」などと、口々に言いつつ不安で見守る目の前、雨で足を滑らせたのか、道路脇の用水路に…。
「あ!」
みんなが叫ぶより早く、一人の同僚が、普段の仕事では見せたことのないようなすさまじい瞬発力で、幅2メートルほどのその用水路に飛び込んでいました。そして、ひざまで水に漬かりながら、子猫の救出に無事成功。
それほど運動神経の良い方でもない彼が、今夜まさかのヒーローです。一同思わず拍手と歓声で彼をたたえました。彼は、照れくさそうなはにかんだような、でも、何とも言えない良い笑顔を、雨に濡らしながら、輝かせていました。
一方、子猫はといえば、振り向きもせずに、さっきまでのか弱い様子からは信じられないくらいの、えらい勢いで逃げ去っていってしまいました。
その子猫の後ろ姿と、取り残されたヒーローのはにかみ笑顔が、絶妙のコントラストとなってみんなの笑いを誘ったのでした。
あんなことがあったなあ。そういえば、あの後、電車に乗ったはずだけど、どうやって帰ったんだろうか。あんなずぶ濡れになっちゃって…。
思い出し笑いをしている自分がおかしくて、ふと我に返りました。何で、こんな昔のことを思い出したんだろうか。
電車に揺られながら、また、ちょっと考えました。
ひょっとして、こういうことだろうか。
今日のさっきの少女2人の笑顔が、あの晩のあのヒーローの笑顔を思い出させたのかもしれない。姿形は似ても似つかないけれども、なぜか不思議に重なって思い出された、そういうことかもしれない。そんなふうに思いました。
「気の毒に」とか「かわいそうに」とか思うと、何とかしてあげたくなる心は誰しも持っています。それは、理屈じゃなくて、人間としての本能みたいなものかもしれません。だから、いろいろ考えるよりも前に、体が先に動く、ということも、また、きっと、自然なこと。
マフラーを拾ってもらえてよかった。助かった。電車を降りれば寒空の下だから…。もちろん、それもあります。でも、もっと大切なことを2人の笑顔から教えてもらった気がします。
人は、誰でも良い心を持っている。だから、それがそのままに出れば、あんな素敵な笑顔になれるのだ。