●先生のおはなし
「十歩でも百歩でもなく、一歩前進」

金光教尾山教会
久田博泰 先生
私は、ごく普通の両親の間に長女として生まれました。
「性同一性障害」、別の呼び方では「GID」とも呼ばれます。ドラマなどで取り上げられることが多くなりましたが、私はその当事者です。つまり、心の性別と体の性別が違うのです。不便なこと、困ったこともありますが、私は今、男性として楽しく生活しています。
よく人から問い掛けられる質問があります。それは、「いつからそうなったの?」という問い掛けです。「小さい頃からでしょう?」と問われると、少し口ごもってしまいます。
幼い頃の私は、「男の子はこう、女の子はこう」と明確な線引きをしていなかったようで、素直に両親から与えられたスカートをはき、ある日は木登りをしたり、またある日は家の中でおもちゃを使っておままごとをしたりと、自由に遊んでいました。
「いつから」の完全なボーダーラインを引いたのは、きっと遅い方で、成人を迎えてから女子寮に入る機会があり、その頃、気持ちが大きく変わったのをしっかりと記憶しています。
「女子寮」という良くも悪くも「女性とはこうあるべき」という狭い選択肢しか用意されていない環境で生活したことで、今までは「女性らしさ」「男性らしさ」関係なく、ふわふわと好きなものを好きなだけ選んでいた自分自身を見詰め直す機会を得ることができました。
当時、自分の性について悩み、またどんなふうに人と接して良いのか分からずに、延々と自分の頭の中だけで考え、「人と違う」という事実にひどい孤独感と悲しみを感じ、とても苦しんでいました。
「自分の頭の中は、男なのか女なのか」という疑問を人に話す勇気もなく、理解してもらえるとも思えずに疲れ果ててしまっていた、まさにその時、女子寮で同室だった女性から、ある金光教の先生を紹介されました。
初めて出会った日、先生は、緊張していた私を、にこにこと明るい笑顔で迎えてくれました。少しずつ話す私の言葉を遮ることなく、「大変だったね」と時折相づちを打って、どれだけ時間が掛かったか分かりませんが、私が話し終えてスッキリするのを待ってから、「金光教の先生の中でも同じように性に悩んでいる人がいるよ」ということを教えてくれました。
その言葉を聞いた瞬間、孤独に曇っていた心が一気に晴れていったのは、今でもはっきりと覚えています。自分だけではない、その安心感がすとんと心の奥底までしっかりと届きました。「それは気の迷いだ」とか、「もっとよく考えてみたらどうだ」など、お説教をされると恐れていた私の心配も全てくみ取ってもらったような、何とも居心地の良いものでした。
それまでの私は、堂々巡りになってしまい、答えの出ない頭の中、孤独感と説明の付かない空しさに、生きることも全て投げ出す覚悟を選択せざるを得ない状況にあったのですが、今では良い経験だったと穏やかな気持ちです。
それまでみじんも信心などしてこなかった私ですが、その時ばかりは、もし女子寮に入る期間がずれて同室の女性と出会っていなかったら…、伝えることを恐れて先生と会う決断をしないままだったら…、些細なこと1つでも欠けていたら時節を逃していただろうと思い、神様とのご縁を信じる大きな切っ掛けになりました。
人に話してみようという、ほんのひとつまみほどの勇気と、遮ることなく話を聞いて受け止めてくれる聞き手の存在。その2つを、金光教の教会という場所で手に入れることができたおかげで、今こうして新しい選択肢を得て、新しい道を歩んでいます。
新しい道を得た私でしたが、戸惑いも多くありました。20年近く女性として生活していた基礎を全て変えて男性として生活する、それは心が躍るほどにわくわくと楽しみな半面、家族が与えてくれたものを全て否定するようなひどく寂しい気持ちもありました。
私は、「性別適合治療」といって、心の性に体の性を合わせていく、という治療を行っています。
今、定期的に男性ホルモンを注射しています。効果は人それぞれですが、私の女性として機能していた体の働きはストップし、声が変わり、筋肉が発達し、体毛が濃くなり、ヒゲが生えるなど、夢のような変化を楽しみながら、更年期障害に似た副作用も感じています。
変わろうと決意したその日から、治療で何かしらの悪い影響を受けるであろう自分の体や命のこと、家族を裏切っているのではないかという終わらない葛藤、様々な覚悟が必要でした。
その反面、色々と珍しい経験もしました。初めて使用した男子トイレではひどく緊張しました。名前の変更で家庭裁判所に書類を提出する時は、私のような理由で氏名を変更する方のための記述が用意されていて驚きました。
人と違うということは孤独を感じることもありますが、勇気を出してのぞいてみた世界はとても開かれていて、耳を傾けてくれる人が多くいることに気付かされました。
そう遠くない過去に、何もかもを諦めていた私は今、その原因を作った「中身と外見の不一致」というアクシデントのおかげで、他人より面白い人生を歩んでいると胸を張って言うことができています。
その切っ掛けは小さな1歩でした。10歩も100歩も先を目指さず、1歩ずつ、小さな勇気を与えてくれた教会という場所と人々に感謝の気持ちを忘れず、私はこれからも1歩ずつ前進し続けていこうと思います。