●先生のおはなし
「拓ちゃんの笑顔」
金光教小郡教会
的場道正 先生
ある日、私がスーパーに行った時のことです。おじいちゃんとお孫さんと思われる2人が一緒にお菓子売り場へと向かっていました。2人とも満面の笑みを浮かべながら、とてもうれしそうです。
さあ、この時の2人の心はどんな思いでしょう。おじいちゃんの気持ちは分かるような気がします。可愛いお孫さんと一緒で、それだけでうれしいに違いありません。ではお孫さんはどうでしょう。大好きなおじいちゃんとのお出掛けがうれしい、それともおじいちゃんにお菓子を買ってもらえるからうれしい、もしかすると、ただ単にお菓子を買ってもらえるのがうれしいだけかも知れません。
私の娘がまだ保育園に入る前の頃、こんなことがありました。ある日、自分がもらったお菓子を持ってきて、こう言いました。「お父さん、このお菓子あげる」。私はとてもうれしい気持ちになって、「ありがとう」と言おうとした時、娘は続けてこう言いました。「だって、おいしくないんだもん」。私は思わず笑ってしまいました。
子どもの心というのは、純粋でとても正直なものです。悪く言えば自分中心です。ここから大人になるにつれて、いろんな色に染まっていきます。では、その大人になった私たちの心は、どのように染まっているのでしょうか。
私には、拓ちゃんという息子もいます。拓ちゃんはダウン症で、生まれた翌日に病院の集中治療室で診察を受けることになりました。その時、「これから先、この子はどうなっていくのか」、「親としてどうすればいいのか」、先行きの見えない不安がいろいろと頭をよぎっていきました。
しかし、人間はみな等しく神様の子どもであり、「この世に無駄な命はひとつもない」という思いにすぐになることができました。それは、私たち夫婦が日々教会で神様の教えを耳にしていたからだと思います。もし私たち夫婦に信心がなかったら、「どうしてこんな子が」とか、「どうして自分たちに」という思いになって、憂鬱になり、落ち込んだりしたことでしょう。
でも、「この子はこれから自分の人生を歩んでいく、それをしっかり見守っていこう」という思いになることができたのは本当にありがたいことでした。
保育園では、自分のことが思うようにできない拓ちゃんに、みんなが気を配り、手助けしてくれました。拓ちゃんはお友達と関わることでいろんなことがだんだんとできるようになりました。
ある時お友達が、「どうして拓ちゃんはお話しすることができないの?」と尋ねてきました。そばにいた私は、「君はお話することや、何でも食べることができたり、走ったり、おもちゃで遊んだりもできてうれしいね」と話しました。普段当たり前にできていることが当たり前ではないということを、子どもたちなりに考えているようでした。
拓ちゃんは、小学校3年生まで地域の小学校に通いました。ここでもお友達と一緒にいることで、いろんなことができるようになりました。クラスで何かぎくしゃくすることがあっても、拓ちゃんがいることでクラスの雰囲気がすぐに和やかになっていくと、先生方がよく話して下さいました。
例えば、けんかをしている子どもがいれば、その中にスッと入っていき、ちょこんと座ってニコニコしている。すると、子どもたちもけんかをやめてしまうのです。
拓ちゃんは、今、特別支援学校に通う6年生になりました。学校では先生方や支援スタッフの方々、お友達のお世話になっています。お姉ちゃんとも仲良しです。いつも周りを和ませ、私たち家族の気持ちを和らげてくれる大切な存在です。
拓ちゃんは、毎日が楽しいということをいつもニコニコとすてきな笑顔で表現しています。その笑顔に触れた方は、「毎日苦しいことがあっても、つらい顔ではなく、笑顔で過ごす方がずっと幸せになれることを、拓ちゃんに教えてもらいました」と言って下さいます。拓ちゃんが、人のお役に立っているのです。
私たちはみんな、神様から等しく命を頂いています。その命には、それぞれ神様の願いが込められています。障害の有る無いに関わらず、神様から頂いた命をありがたく受け止めて、生き生きとした心でいることが大切だと思うのです。
身の周りのことを不足に思ったり、人を責めたり、あるいは自分を偉く見せようとしたり、時にはダメだと落ち込んだりしてしまうこともあります。そんな時、神様は、「そんな心では幸せになれないよ」、「そんなに苦しまなくていいよ」と優しく手を差し伸べて下さいます。
私たちは、障害を抱えている人そうでない人、健康であっても、足の速い人もあれば遅い人、背の高い人もあれば低い人もいます。人それぞれ違う喜びがあり、また悩みがあります。だからこそ、みんなで支え合っていくことが大切なのです。お互いどの命も比べることのできない大切な命です。拓ちゃんにしかできないことがたくさんあるのです。そこには祈りがあり、願いがあり、いたわりがあり喜びがあります。粗末にしていい命など、絶対にないのです。
金光教は、誰もが心安らかに今を生き、命を奪い合うような争いのない世界を願っています。それは神様の切なる願いなのです。
それぞれの個性あふれる命の輝きに目を向けながら、それぞれの心に寄り添い、共に過ごしていきたいと思います。