命のピンチを通して


●信心あればこそ
「命のピンチを通して」

金光教柏原かいばら教会
青木清野あおききよの さん


 私は夫と結婚して27年になります。3男1女の4人の子どもを授かり、明るく賑やかに過ごしてきました。
 我が家では、朝は神様に、今日も命を頂いていることのお礼をし、家族や友達と元気で仲良く過ごせるようにと願います。そして夜には、一日元気で過ごせたことや、命を頂いたお礼を言って終えるのが恒例となっています。
 そんな中でも、子どもたちが成長する過程で、それぞれに「命のピンチ」とも言えるような大きな出来事がありました。
 次男が1歳の時です。朝起きて、私が布団を片付けている間、次男は兄と2人で、台に上っては飛び降りて、と元気に楽しく遊んでいました。私は、その台の上に置いてある、おもちゃのコインが目に入りましたが、特に気にせず片付けを続けていました。すると、次男が急に咳込み、よだれを垂らして泣き出したのです。一瞬、「どうしたのだろう?」と思いましたが、とっさにコインのことを思い出しました。台を見ると、コインはどこにも見当たりません。「まさか、飲んでしまったのではないか…いや、飲んだに違いない!」
 私はすぐ背中を叩きましたが何も出てきません。「コインに気付いた時に手の届かないところに片付ければ良かった。神様、私の不注意です。どうぞ助けて下さい!」とお願いし、病院に行きました。
 レントゲンを撮ってもらうと、やはり、コインを飲み込んでいました。お医者さんの説明では、「コインが縦向きに入っていたので気道が確保出来ています。これが横を向いていたら、気道を塞ぎ、窒息していましたよ」とのことでした。
 その後、内視鏡を使って無事に取り出してもらいましたが、処置をしてもらっている間、「あの時、すぐ、コインを片付ければ良かった」と自責の念に駆られました。でも、「コインがある事に気付いたからこそ、『飲み込んだ!』と直感し病院に行けたのだ。飲み込んで大変な状況の中にも、ちゃんと呼吸が出来ている。ああ助かった。神様、ありがとうございます!」という気持ちが湧いてきて、命があることに御礼が言えました。
 それから数年後、今度は長男が小学生の時に起きた出来事です。
 我が家のそばには、小学校と幼稚園があります。校庭に加え、その敷地内の山にも遊具があり、学校から帰った子どもたちの遊び場となっています。その日も長男は、いつものように下校するとすぐ、友達と3人で遊びに行きました。
 私が後から下の子たちを連れて遊びに行くと、長男たちは上級生も加わって5、6人で校庭で遊んでいました。私の姿を見付けると、みんなで駆け寄ってきて、何やら言いたそうにしています。「どうしたの?」と聞くと、「実は…」と、事の次第を話し始めました。
 最初、3人は山で木に縄跳びの縄の両端を括り付け、基地作りをして遊んでいました。長男がふざけてその縄を首に掛けた途端、斜面で足が滑り、首吊り状態になってしまったのです。友達2人は、何とか助けようと頑張るのですが、長男の全体重が掛かって、縄は締まっていく一方。
 焦っていたその時、校庭に、いつもよく遊んでいる、顔馴染みの上級生たちが遊びに来ました。それに気付いた友達が、「僕が支えておくから、早く呼びに行って」と頼み、今度は上級生たちと協力して、やっと縄から外すことが出来たのだそうです。
 その時の長男は、もがき苦しみ、顔中がうっ血して、しばらく意識を失っていたそうです。その様子を見たみんなは、「とても怖かった」と話してくれました。
 長男を見ると、既にケロッとして笑っているのですが、顔のうっ血はもちろん、目はひどく充血し、九死に一生を得た様子が見てとれました。みんなに怖い思いをさせたことを謝り、命を助けてくれたことにお礼を言いました。
 「もし1人で遊んでいたら…いや、3人だけでも助かってはいなかっただろう」と思うと、知らない上級生ではなく、顔馴染みの上級生が遊びに来たことは「偶然の出来事」と済ませることは出来ません。神様のお働きを頂いたのだと確信でき、26歳になった今も、その日は長男の第2の誕生日として、命のお礼を忘れないようにしています。
 他にも、子育て中には命に関わるような大きな出来事がいくつもあり、不安や心配の中で、どう向き合っていけば命も、気持ちも助かるのだろうと見つめてきました。
 こうした、子どもの「命のピンチ」を通して気付かされたことは、こんなことでもないと、子どもの命に本気でお礼が言えない私だったということ。そして、私自身の命も、我が子の命と同じように、両親が願い、祈って育んでくれた命であるのだということでした。
 今、成人した子どもたちにも、折に触れ、当時の話をします。私や夫の父も、自身が子どもの頃、命に関わるようなけがや病気をした、と繰り返し話していましたが、それはきっと、その事を通して「自分の命とは、願われ、祈られ、守られてきた奇跡の命なんだ」ということを身をもって感じ、現してくれていたのだと思います。
 人が作ろうとして作れるものではない命。生かされて生きている私たち。それを知ると、神様のお働きを感じる生き方となり、あらゆる物や事柄にお礼が言える心豊かな生き方が出来ると思います。今日も命にお礼が言えますように。

タイトルとURLをコピーしました