●第4回
「かんべむさしの金光教案内」
金光教放送センター
おはようございます。「かんべむさしの金光教案内」、今朝が最終回でございます。
これまでの3回では、私が40代半ばに、公私共に問題を抱え出したこと。偶然、金光教を知って、大阪の玉水教会へ偵察に出掛けていたこと。その偵察期間が2年ほどに及び、その過程で、金光教が優しくて、穏やかで、寛容な宗教であると確認できたこと。そういったことを聞いていただきました。
そして結局、「よし。それでは、この教会に通わせてもらおう」と決心したんですけど、実はそれまでに、「やっぱり、やめておこうかなあ」と思ったこともあったんです。
というのが、何度も教会の中に入って様子を見て、教典とか伝記とかを読みもしてましたが、何か代わり映えがしないというか、何の変化もない気がしてきたからでして。
しかしこれは、私の姿勢に原因があったんですね。つまり、それまでただ観察や確認をしてきてるだけで、教会の先生と一度もお話をしてなかったからなんです。
金光教の根本は、一対一の「取次」「お取次」、私なら私が教会の先生に願い事や悩み事を聞いてもらい、それについての神様の思いや教えを伝えていただくという、そういう関係によって成り立っています。その根本の関係に踏み込まず、ただ眺めてるだけなんだから、変化のあるはずがないんですね。
で、そこに気が付きましたし、公私共の問題を何とかしてほしいという、そういう思いも強くありましたから、ついに決心して、47歳の時、自分の名前や職業、抱えてる問題などを、先生にお話しさせていただきました。
金光教はどこの教会でも、神殿の右手側に教会長なり、その教会に所属しておられる先生なり、常にどなたかが座っておられます。その方に対して、いわば「打ち明け話」をするわけですが、そのことに特に抵抗はありませんでした。病気の時、お医者さんに病状を伝えるのと同じことで、正直にありのままを言わなければ話になりませんからね。
そして、いよいよ定期的に参拝を始めたんですけど、その当初は、自分が金光教について分からないこと、疑問に思ってることなどを、よく先生に聞いておりました。
中年になってからのスタートですから、とにかく早く全体像を理解したかったからですが、金光教では、教会は信心の稽古をする場所で、実践するのは、各自の家庭や生活や仕事の場でと、そう教えられております。その意味では、私は質問という形で稽古を始めてたことになりますが、まあ、今考えてみれば、レベルの低いことや愚かなことを聞いてたんだろうなと思います。
それから、自分の抱えてる公私の問題が、参拝し出してすぐに解決したかというと、そう都合良くは進みませんでした。
それは教祖様自身が、「自分の教える道では、物事の解決や成就には時間が掛かる。その代わり、無理がない道だし、神様に解決してもらった難儀は、二度と起きてこない」と、そういう意味のことを言っておられます。
当座の解決、仮の解決ではなく、神様は根本からの解決をしてくださるからだそうですが、この辺りは、私にはレベルが高過ぎて、うまく説明できません。しかし、「なるほどなあ」とは思いました。実際、抱えてる問題にはいまだに続いてるものもありますが、「なるほどなあ」という思いを元に、解決と成就を願い続けているという状態です。
その間、母親が83歳で亡くなりましたが、前に申しました身内のトラブルは、まだ続いておりました。私は3人兄弟の末っ子なんですが、そんなこんなで、母親の世話についても、私が長男の役を勤めるようなことになっていた。だから私の家族にも迷惑を掛けました。色々腹立たしいことや悔しいことがあり、母親の告別式の前日、玉水教会へ行って、広い会堂の長椅子に座って、長い時間泣いていたことを思い出します。今思えば、そうやって「泣ける場」を与えてもらえていたことも、ありがたいことでした。
で、話を戻しまして、金光教では信心の当座の目的として、目の前の問題の解決や成就を願うのは、現実の生活をしている人間として、当然のことだと認められております。その意味でも、入門者にとっては安心できる宗教だったわけです。
ただし、それで終わってしまうのではなく、解決や成就に感謝して信心を進め、神様に喜んでいただけるような、そんな生活や人生を目指しなさいとも教えられています。これもまた、本気で考えたらレベルの高い話でして、まだまだ私の及ぶところではありません。
しかし、決心してから今日まで、20何年通わせてもらって、実感していることがあります。それは、自分が教会の先生に対して、あるいは心の中で神様に対してでも、どんなことでも正直に、ありのままをお話しさせてもらえて、この神様に本気でお願いさせていただけるという、「それは、ありがたいことだなあ」という思いです。
ありのままを打ち明けられて、本気でお願いできる。これは大事なことだと思いますので、そういう神様を「与えて」もらえたことは、これはやっぱり幸運だったな、ありがたいことであるなあと、そう思うわけです。
というわけで、以上4回、「かんべむさしの金光教案内」をお聞きいただきました。機会がございましたら、またいつか、お話を。ありがとうございました。