●信心ライブ
「足もと」
金光教放送センター
(ナレ)おはようございます。
今日は、鹿児島県上荒田教会の宮内英児さんが、令和元年7月に金光教本部でお話しされたものをお聞きいただきます。
(音源)12月の半ばに、慌てておりまして、よくある3段ボックスで右足の薬指を思いっきり打ったんです。転びはしなかったんですけどゴンと打って、それがずっと痛かったんです。年末にそういうことがありまして、始めはまあよくあることで打撲だと思っていたんです。あざができて、1週間ぐらいすれば治るだろうと思っておりました。ただ1週間経っても治らない。私は都合の良いように考えまして、とりあえず先が曲がらないし、突き指したのだろうと思いました。しかし、2週間経っても治りません。そのうちに大みそかがくるんですね。大みそかまで治らなくて、その間ちょっと打ってもすごく激痛が走るんですね。声が出ないくらいに激痛が走って、ああ痛いと思っていました。
大みそかでした。ちょうど息子たちが、「お父さん、今年もありがとう」と言ってくれたんですね。まあうれしいひと時で、ハグしてくれというふうに手を広げてきたので、「ありがとうね」と言いましたが、子どもたちがワーと来たんですね。足を蹴られまして、息子に。本当に痛くて、「くー」と言ってこの場に倒れ込みました。息子たちは「ごめん、ごめん、ごめん」と謝るんです。これはいかんと思いました。息子たちに心配をさせてもいかんし、指も痛すぎると思いまして、年が明けたらすぐ病院に行ったんです。そうしたら、足の薬指にヒビが入っていると言われまして…。
(ナレ)足の指を骨折し、痛みを感じながらひと月を過ごした宮内さん。その間、自分が普段足元をおろそかにしていたことに気付いて反省し、何かできることはないかと考えた結果、まず履き物をきちんとそろえることに取り組みました。
(音源)履き物をそろえるというのは難しくないことです。ただそろえればいいのですけど、そのうち我が息子たちもそろえてくれたらいいな、きちんと心が整ってそろってくれたらいいな、家族が同じ方向を向いてそろってくれたらいいなというふうに思ったのです。
来る日も来る日も、「履き物そろえてよ。そろえてよ」と言いましたが、一向に子どもたちはそろえることがありませんでした。そのうち腹が立ってきて、帰ってきて玄関開けるなり、「おまえら、履き物そろえろ!」と怒鳴るようになってくるんですね。もうビックリして子どもたちは玄関まで来て「お帰り」と迎えにくるんですけど、「あっ、ごめん。今そろえる」と言うものの、怖がるようになってくるんです。それを見て、本来ならば履き物までそろえる余裕、心の整った姿というのを目標としているのにもかかわらず、自分自身は履き物をそろえるということに執着し固執して、それができなければ絶対いけないと、そこしか見えてなかったのですね。そんなところに私は気付かせていただきまして、これはいかんと、自分自身がそのことでかえって余裕がなくなってきているというふうに思うんですね。だから、「何回かは、子どもたちに怒鳴ること自体を止めよう。そう思うんだったら、自分が願いを込めてちゃんと子どもたちの分までそろえてあげよう」というふうに思いました。
自分で家族全員分の履き物をそろえるようにしだしました。次第に履き物を毎日そろえていると、子どもたちの靴、妻の靴に砂が入ってたり、汚れていたり、濡れていたり、かかとが潰れていたりとか、靴にいろんな特徴というか跡が付いているのです。触ってみると、ちょっと温かかったりする。その印を見て、靴が私の知らない家族のこと、姿というものを教えてくれるんですね。それはありがたいことでした。そういうふうに思わせていただくと自然に靴に対して、「今日もありがとうございます」という気持ちになってきて、「今日もお守りいただいてありがとうございます。どうぞ、また気持ちがそろって、また、明日、ここから進んでいけますように。おかげを頂きますように」というふうに、お礼の気持ちが出てまいりました。
(ナレ)いかがでしたか。
この後、息子さんたちは自然と履き物をそろえるようになりました。時には、子ども同士で、「自分が靴をそろえるんだ」と競い合うこともあるそうです。
自分で靴をそろえ始めたことから、いろいろなことに気付くことができ、神様に感謝する宮内さん。日常生活のささいなことから始まった行いが何かを気付かせ、手元足元が整っていく。それは、靴をそろえること自体が目的なのではなく、そのことをとおして自分の足元を見つめ直しているんですね。
そう考えると、私たちの日常の中には、心が豊かになるための材料が、ここにもそこにもたくさんあるのだと思います。