八幡の大空襲


●平和
「八幡の大空襲」

金光教放送センター


(ナレ)瀧内幸子たきうちゆきこさん、現在84歳。瀧内さんは、福岡県北九州市八幡やはた、かつて八幡製鉄所と共に栄えたこの街で生まれ育ちました。幼い頃、日本は戦争の真っただ中でした。昭和20年8月8日、瀧内さんが10歳の時、八幡の街はアメリカ軍による激しい空襲を受けました。

(瀧内)朝10時頃でしたか、私は外に遊びに出てたんですよ。そうしたら、ウーとサイレンが鳴って、「あっ、空襲警報!」と思ったんです。早く家に帰らないとと思って、走って家に帰っていたら、目の前にパーッと焼夷弾が落ちたんですよ。あれはたぶん焼夷弾しょういだんだと思います。銀色で、こんな形でした。目の前にそれがすっと落ちて、もう急いで帰って角を曲がったら、母が玄関の前で、「ゆっこちゃん、早くおいでおいで!」と待っていました。それで急いで走っていきました。私、7人兄弟なんですよ。妹たちと手をつないで、「早く早く」と言いながら、もう急いで母についていきました。
 私の家のすぐそこに、目の前に結構高い丘があってそこに、石段があるんですよ。それでその石段をダーッと上がって行ったらお寺があって、そのお寺の裏側に、町内の人が作った防空壕があったんです。慌ててその防空壕に母と弟や妹たちと一緒に入ったんですよね。防空壕の中に入っていたら、もうずーっと時間とか分からないですよね。そうしたら誰かが、「あっ! お寺に火が付いたよ!」と言ったんです。すると、町内会長の奥さんが、「皆さん、覚悟してください」と言いました。お寺に火が付いたら、お寺の裏側だから、防空壕にもすぐ火が入ってくるでしょ。だから、「皆さん、覚悟してください」と町内会長の奥さんがおっしゃったんですよ。そうしたら、みんな「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀仏」とか、いろいろその辺りで唱えだしました。持ってた荷物をほったらかしてね、もうこのまま死ぬんだという雰囲気ですね。
 そして、それからどのくらい経ったか…そんなに経ってないと思うんですけどね、何かドンドンドンドンって板戸をたたく音がして、消防団のおじさんが、「西弥生町にしやよいまちの者はここに入ってるか」って言われたんですよ。それでみんな「はーい!」と返事しましたが、「へえ、助かったー!」と思いました。
 そうしたら、私の横にいた人が、戸を開けた時に、「水が飲みたい」と言ったもんだから、そのおじさんが鉄かぶとを…あの頃みんな鉄かぶととかかぶってますからね。それですぐそこに防火用水というのがあったんですよ、こんな大きいのです。町のあちこちにあって、それに水がいっぱい張ってあるんです。そこからくんでくださったんですよ。それを順番に飲んだのですけど、水が熱いんですよ。防火用水に水が入れてあるけど、その熱気で水がもう沸かしたみたいになってるんですよ。だから、「熱い!」というほどではなかったけど、でも口に付けたら…もうその感覚も覚えてますね、鉄かぶとの感覚。それに口を当てて飲んだら、熱いんですよ。それを一人ずつ順番に回して飲みましたね。もう何時間もずっとそこに入ってるから、みんなのどが渇いてたんですね。
 みんな捨てていた荷物を抱えて、慌てて入口から出たんですよ。今まで真っ暗な中にずっと何時間も入っていたでしょう。たぶん朝入って夕方の4時ぐらいに出たんだと思います。8時間ぐらい入ってたんですかね。外に出たら、もうまぶしくて…もうパッと外に出た途端に、目がもうこんなになるみたいな感じでした。真っ暗な中に何時間もおって、パッと目を開けた瞬間に…防空壕があるお寺は山の上にあるんですが、ぱっと目を開けたら、もう見渡す限り焼け野原で、1軒も家なんか見えないんですよ。あっち向いてもこっち向いても、ずーっと焼け野原で。炎がこのくらい上がってる所もあるんですよ。そして、ふと見たら、馬がそこにコテンと焼け死んでました。すぐ横に馬が転がってました。もうぼうぜんとしてしまいました。どっこも焼けてしまって、1軒も家が見えない。見当たらないんですよ。

(ナレ)この日、無数のアメリカ軍爆撃機B29が、大量の焼夷弾を市街地へ投下しました。この空襲は、約1万4千戸を焼き、およそ2千5百人もの死傷者を出しました。瀧内さんは、今もこの時の体験が忘れられません。

(瀧内)だからもう絶対何年経っても忘れないですよね。自分が経験したことだから…あの時はこうだった、ああだったっていうのは…あんなことはもう二度とあってほしくないですよね。本当に思いますね、つくづく。
 今、何事もなく、こんなに幸せに暮らさせてもらってるのは、本当ありがたいなとつくづく思いますね。
 だから、今みたいにね、何にもないことが当たり前になっていると、当たり前がありがたいとか思う人いないでしょうね。もうこれが普通。自然の毎日だから。
 私にしてみたら、何事もなく朝目が覚めてね、主人も元気で目が覚めて、「ああ、良かった」と思います。「金光様ありがとうございます。今日もいのちを頂きまして、お礼申しあげます」と、本当に心から言えますね。ありがたいなと思いますね。


(ナレ)瀧内さんは、何をするにもまず神様にお礼を言います。それは、「今、目の前にある当たり前の日常は、決して当たり前のものでない」と、そのことを繰り返し思い続けて、自分の体験を背負い今日まで歩いてこられた姿なのだと思います。
 たった75年前、多くのいのちが奪われた戦争が終わりました。私たちは瀧内さんのように、今ある自分のいのちを当たり前だと思ってはならないのだと思います。

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