●先生のおはなし
「窓の向こうから」
金光教阪急塚口教会
古瀬真一 先生
新型コロナウイルスの感染が拡がり、緊急事態宣言が出されていた頃のことです。ニュースでは、感染の広がりや経済活動の停滞など厳しい状況が、四六時中伝えられ、信者さんからも「感染が怖くて外出できない」「仕事ができない」という切実な声が寄られるようになりました。
人の動きが止まっているため、教会の前の県道を通る車は疎らになり、近くの空港を離着陸する飛行機もほとんどないようで、とても静かです。空気も、心なしか普段より澄んでいるように感じられました。私は、そんな変化を、せめてもの好ましいことと受け止めながらも、「心地いいな」「嬉しいな」といった感情が、少しも起こって来ませんでした。報じられている危機的状況と、目の前ののどかさとのギャップ。身体は生きているけれど、心は半分死んでいるような感覚。どうすることもできない無力感と虚しさに押しつぶされそうでした。
ある日、塞いだ気分のまま、換気のために庭に面した窓を開け放った私は、見慣れていたはずの庭の美しさに、はっと息を飲みました。4階建の建物の北隣にある教会の庭。谷底のような場所なのに、キラキラと眩しい太陽の光がふんだんに降り注いでいます。新緑の柿の葉が爽やかな風を受け、瑞々しく輝きながら心地よい音を立てていました。生命力に満ちた平和で明るい世界が、そこには広がっていました。
私は、少しだけ、心がほぐれていくのを感じました。
そんなふうに気持ちが動いたことが嬉しくて、教会の祭壇の前に正座し、額を畳につけるように深く頭を下げました。そして、たった今目にした、庭に面した窓からの景色を思い浮かべながら、「感染は広がっているけれど、今、この時、こうして命を授かって、生かしていただいている。本当にありがたい。幸せなことだ」と、神様にお礼のお祈りをしたのでした。
そうして祈っていると、何故か大学生の時に暮らした部屋からの眺めが、瞼に浮かんできました。海抜770mの高原に位置する、キャンパス近くにあるアパートの一室。西側の玄関ドアを開けると、なだらかな上り勾配の畑が、伸びやかに広がっているのが見えました。また、東側の窓の前に置いた勉強机に座れば、牧草に覆われた農場の遥か向こうから、まるでこちらを見守るかのように、美しい姿をした甲斐駒ヶ岳が、いつも気高く聳えていました。一人暮らしの寂しさも、人間関係の悩みも、卒業論文の行き詰まりも、それに失恋の痛みまで、この部屋からの景色を眺めているうちに、あれも、これも、忘れ難い、素敵な青春の思い出になっていったのです。
「ちゅん、ちゅん…ちゅん、ちゅん」。庭から聞こえてきたスズメの鳴き声で、私は、我に返りました。神様にお祈りをしていたはずが、いつの間にか、若かりし日の窓辺へと、記憶の旅に出ていたようです。
私は、庭に面した窓からカーテン越しに、しゃがんでスズメを覗いてみました。柿の木の葉陰に慌てて隠れたスズメたちが、一羽、二羽と目の前に舞い降りて、愛らしい仕草でエサをついばんでいます。ほんの一瞬でしたが、一羽のスズメと目がパチッと合いました。
その時、窓の向こう側から私に向けられた眼差しがあることに気がつきました。自分が見られているなんて思ってもみませんでしたが、私が見ているスズメも柿の木もお庭の石も、逆に私を見ているかも知れないと思ったのです。
スズメは、時折サッと宙を舞い、場所を変えながらエサをついばんでいます。私は、それを眺めながら、再び記憶の旅へと戻ります。
大学生の時、部屋の窓から見た、伸びやかに広がる畑の景色が、「独りよがりの狭い考えに囚われているんじゃないか」と、気付かせてくれたこと、堂々と、気高く聳える山の峰が、うつむきがちになっていた私に「自信を持って、どーんと構えておけよ」と言わんばかりに、見上げればいつもそこに在ったこと…。あれこれ思い出しているうちに、「私は、窓の向こうのあの美しい世界から、いつも見守られ続けていたんだ」「あの頃も、今も、ずっと神様が見守って下さっていたんだ」という気がして、だんだん元気が出てきました。
「よし!」と思って立ち上がると、驚いたスズメはサッと屋根の向こうへ飛び去って行きます。私の心に重くのしかかっていた無力感と虚しさも、どこかへ飛んで行ったのでしょう、清々しい気持ちが湧いてきました。
勿論、状況は、さっきと何も変ってはいません。けれども、今までずっと、そしてこれからも、神様からの温かい眼差しが、私にも向けられているんだと思えば、「焦ることはない。今は、直に会うことはできないけれど、会えないからこそ、辛さの中にある方たちのことを、これまでにも増して祈らせてもらおう。それが、今の私の役割なんだ」と、私は、自分の心の置き所を定めることができたのでした。
心の窓の向こうから向けられた神様の眼差しに気付けば、新しい世界が見えてきます。慈しみに満ちた神様の祈りの眼差しはいつも、私にも、あなたにも、向けられているのです。