おさがりの自転車


●先生のおはなし
 「おさがりの自転車」

金光教石脇いしわき教会
福場信枝ふくばのぶえ 先生

(ナレ)おはようございます。パーソナリティの岩﨑いわさき弥生やよいです。
 今日は、鳥取県・金光教石脇いしわき教会、福場信枝ふくばのぶえさんのお話で「おさがりの自転車」を聞いていただきます。

(本文)私たちは思いも掛けないことに遭遇して、悩んだり落ち込んだり、ほんのささいなことでイライラしたり、もやもやしたりします。自分の心なのにどうすることもできず、心も体も元気がなくなってしまうことがあります。そんな時、どうしたらいいのでしょう。
 新学期を迎え、真新しい自転車に乗って学校に通っている女子高生を見ると、思い出すことがあります。
 それは、娘が高校生になる春のことでした。高校は自転車で通える所にあったので、新しい自転車を買ってもらい、それに乗って学校に通うのを、娘は楽しみにしていました。小さい頃から何でも兄のお下がりを使ってきた娘にとって、初めて買ってもらえる自分だけの新しいものです。「いつ買いに行くの?」と、娘はうれしそうに尋ねてきました。
 私も4人兄弟の3番目で、いつもお下がりを使っていたので、新しい物に憧れる彼女の気持ちはよく分かります。しかし、我が家には既に、2人の兄が使っていた自転車が、比較的綺麗な状態のまま使われずに置いてありました。
 新しい自転車を買ってあげれば、娘が喜ぶことは分かっています。でも私は、このお下がりの自転車を使ってほしいと思っていました。物は、使われることで初めて物として生きてくるし、大切に使うことで喜んでくれるのだと思います。置きっ放しにするのではなく、大切に使わせていただく。そのことを分かってほしい。そんな願いを込めて私は、「あなたの気持ちも分かるけれど、この自転車を使わせてもらってはどうかな」と、娘に話しました。
 しかし、それ以来娘は、自転車のことを思っては浮かない顔をするようになりました。娘も分かってはいるけど、やっぱり新しい自転車にも乗りたい。何ともすっきりしない様子です。親の思いを強要して我慢をさせても、娘の心は助かりません。無理やり納得させてお下がりの自転車で学校に通わせても、自分の足代わりに走ってくれる自転車を、ありがたい気持ちで乗るどころか、大人になっても、「あの時自転車を買ってもらえなかった」という思いだけが残るかもしれません。
自分の心は自分ではどうすることもできません。ましてや、人の心は、たとえ親子であってもどうすることもできません。自転車の件は、娘がこれから経験するであろう出来事の中では、ささいなことのはずです。でもそのささいなことに人間はいつも心を揺らし、悩み、心を痛めます。私には、どうなれば娘の心が晴れるのか分かりません。私にできることは、神様に娘のことをお願いし、また、ここまでのお礼を申し上げることでした。「このたび娘は高校に合格させていただきました。ここまで成長させていただき、ありがとうございます。今、自転車のことで心が落ち着かないようです。どうぞ、心が助かりますように」。私の産んだ子ではあるけれど、私は娘の命をつくることも手足を動かすこともできません。私は神様から娘を授かったのですから、その神様に娘の今の命のお礼、ここまでのお礼を申さずにはいられませんでした。
 それから数日後のことです。娘がすっきりした顔で言いました。「友達のKちゃんがね、おじいちゃんから、『新しい自転車は買わずに、今家にある自転車を大切に使わせてもらいなさい』って言われたんだって」。
 Kちゃんとは、入学したら一緒に高校に通う約束をしています。そのKちゃんが、「新しいママチャリに乗りたいし、今の自転車はサビだらけなんだけど、でもやっぱり大切に使わんとな」と言ったそうです。Kちゃんのその言葉で、娘は何かを感じ、心が落ち着いたようです。そして鼻歌を歌いながら自転車を磨き出しました。
 私は、「何と、神様はこんなふうに働いてくださるのか」と驚き、お礼を申しました。私には彼女の心が落ち着き、元気が出てくる方法は分かりませんでした。それでも神様は、それぞれの思いをしっかり聞き届けてくださいました。
 そして娘は、そのお下がりの自転車に乗って、
颯爽さっそうと通学するようになり、3年間の高校生活を過ごしました。
 あれから8年。社会人となった娘は、大きな問題、ささいな出来事に心が揺れる毎日のようですが、今の今、神様のおかげで生きていることへのお礼を申しながら、成長していっているように思います。

(ナレ)いかがでしたか。
 「自分の心をどうすることもできない。ましてや娘の心をどうすることもできない」。本当にそうだなあと共感しました。だからこそ、福場さんは、娘さんのことを生まれてからずっと祈ってきたんですね。命を頂いたお礼、ここまで育ったお礼、そして、神様に喜ばれる生き方ができるようにと祈っておられたのでしょう。言っても聞かないから言わないのではなく、ずっと祈りながら育ててきたことが、このような導きを頂けたのかなと思いました。よく「祈ることしかできない」などと言いますが、「祈ることができる」んですね。

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