ゆっくり、やさしく、ていねいに


●こころの散歩道
「ゆっくり、やさしく、ていねいに」

金光教放送センター


 私がお昼ご飯を食べている時、ガリッと砂をかんだような嫌な感触がしました。「アサリを食べたわけじゃないのに」と思いながら調べてみると、何と歯が欠けていました。実は、5、6年前から、夜寝ている間、無意識に強くかみ締めているようで、歯の詰め物が取れてしまったり、トラブルが続いて、とうとう歯が欠けてしまったというわけです。

 私が通院している歯医者さんは、治療と共に歯磨き指導を行います。6年前、最初の治療に行った時も、「そんなに早く歯ブラシを動かしていたら、ブラシが歯に当たっているようで、実は当たっていないんですよ。もっとゆっくり、優しく、丁寧に」とご指導いただきました。その当時の私は、「確かにそのとおりだけど」と思いながら、忙しさにかまけ、言われたとおり「ゆっくり、優しく、丁寧に」ができませんでした。歯磨きだけでなく、あらゆることが、「早く。効率よく」に重きを置いてこなしていたように思います。

 私の2人の子どもは、もう成人しましたが、子育て時代も、「時間がない! 早く早く!」といつも子ども達を追い立てていたように思います。子どもに何か尋ねていても、「こういうことなの? それともこういうこと?」と矢継ぎ早に選択肢を並べ、子どもは何も口を挟まず、YesかNoか首を縦にするか横にするというような調子でした。今考えてみれば、最もしてはならない子育てをしていたと、今さらながら反省することばかりです。しまいには子ども達に、「お母さんは、『No Choice』」とあだ名を付けられてしまいました。つまり、「選ばせない。自分で何もかも決めている」と言われるようになったわけです。
 そんな子育てにもかかわらず、子ども達が、とりわけ優しく穏やかに育ってくれたのは、同居していたおじいちゃん、おばあちゃんのおかげだと思うのです。いつも「ゆっくり、優しく、丁寧に」子ども達に接してくれて、全てを温かく受け止めてくれた人がいたことは、子ども達にとって幸せなことだったと、今しみじみ思います。そして、義母ははが亡くなった今になって、孫だけでなく嫁の私のことも、「いつか分かってほしい」と、「ゆっくり優しく、丁寧に」見守ってくださっていたんだなあと思うのです。
 その時分のことで、もう一つ思い出すのは、小児科のお医者さんから掃除機の掛け方を教わったことです。
 子ども達がアトピー体質で、小児ぜんそくでした。特に下の娘がひどく、ひざの後ろや腕に湿疹ができ、かいては化膿かのうしたり、季節の変わり目にぜんそくの発作に悩まされたりしていました。主な原因は、ハウスダスト。毎日お掃除をしているのになぜ、と思っている私に、お医者さんが意外なことを言いました。「お母さん、掃除機をどうやって掛けていますか? 力任せに吸い口を床やじゅうたんに当てていませんか?」と言うのです。先生が仰るには、「掃除機は家電製品です。ブラシの吸い口に当たっている部分を吸い込むわけなのだから、力任せにやる必要はなく、『ゆっくり、優しく、丁寧に』やることが大切なんです」。言われてみれば、確かにそのとおり。掃除機の吸い取り面を、やたらに力を入れながら、ゴリゴリとせわしなく床やじゅうたんに押し当てている自分の姿が目に浮かびました。

 歯が欠けたことで、また通院することになった私に、歯医者さんが改めて、「ゆっくり、優しく、丁寧に」の歯磨き指導をしてくださいました。そして、かみ締めの原因を探るために、どんな生活をしているのかを聞かれました。いろいろ話していくうちに、数年前、家業に専念していた母が亡くなり、一辺に自分がやらなければならない用事が増えたこと。そして、やったことに対して、いつもその結果を出そうとして焦っている自分が見えてきました。私は、確かに一生懸命やっているかもしれないけれど、何もかも自分でやろうとして、「何か手伝おうか」という声に耳を貸さず、自分一人アクセル全快で、周りも見ずに突っ走っていることに気が付きました。そして、歯医者さんの問い掛けで、自分のことを立ち止まって振り返った時に、「ずっと前から神様は、私の生き方の危うさを教えようとしてくださっていたんだな」と思えたのです。

 ちょっと力を抜いて、「ゆっくり、優しく、丁寧に」生きることで、もしかしたら困難なことを回避したり、反対に、大切なことを見逃さず、大きなチャンスに気が付くことにもなるのかなあと、歯磨きをしながら思うのでした。

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